2009年11月 6日 (金)

NO.219号 北軽井沢の唐松紅葉。

 09.10.29~30日北軽井沢の太平洋クラブゴルフ場で。
 このゴルフ場は海抜1,200mの高原にあり、36ホールの広大なもの。元は唐松林をゴルフ場に変えたものらしい。
 従って木は全て唐松であり、左右が全て唐松のコースである。高所のために本軽井沢よりも秋の訪れが早い。私の訪問が数日遅かった感があるが、好天の中、壮大さと澄んだ空気の中でのプレイは素晴らしいものであった。
 ホテルが付属し、別棟の食堂が完備している。
 唐松は真っ直ぐに成長し,剛性に富んでいるから電柱材として大きな需要があったが、電柱ががコンクリートに変わり、建築材には適さないから、無用になってしまった。長野県では高所に向く唐松を植えた山林が非常に多く、利用についての研究が行われているが、その消息は判らない。
 このゴルフ場に隣接して広大な浅間牧場があり、牧場を越えて浅間山の全貌や、遠く草津温泉、白根山を遠望できる。但しここのゴルフ場はは4月半ばから11月半ば頃までの営業。コースの手入れは素晴らしい。私はここで2日間プレイと撮影を楽しんだ。。
 以下はその写真。

浅間牧場を越えて浅間山の噴煙遠望。

 
浅間山鬼押し出し遠望。ごつごつの傾斜が天明の大噴火の最後の溶岩の塊。山の北斜面。


 浅間山の西裾にある小浅間と云われる山。天明の大噴火のときにここの土地が盛り上がって出来た。
 私はこの山に登って見たが頂まで一時間掛かった。何れはこの小山が噴火するのか?頂から北軽高原が北に一望。南は長野県佐久郡。
雲は噴煙。


浅間牧場





牧場を越えて白根山遠望。右裾が草津温泉だが霞んでいる。


ゴルフ場から牧場遠望。牛が見えた。


ゴルフ場玄関前からホテルを望む。


玄関前から駐車場。後から車が増えた。


食堂、ホテルの食堂は別棟。食事は美味しい。


いざスタートへ





唐松が何十万本あるか判らない。同じ唐松も光の加減で随分違います。


   向こうの高い山は浅間隠れ山と云い、大学の登山部の人たちが練習登山をするそうだ。左の緑の所はスキー場。背景は皆唐松。
 浅間隠れ山の麓手前に二度上峠(にどあげとうげ)があり峠を越えると倉渕村(現在は高崎市)権田になる。そこは幕末、小栗上野之介の領地。

 手入れの良い芝生に唐松の陰が美しい。こう書いていてもコースの番号が判らなくなりました。歳のせいかしら。


小栗上野介父子の墓 


 小栗上野介 資料はPCより以下に示す。
 幕末開明の人、遣米使節の後、勘定奉行などの要職につき、横須賀製鉄所の設立を初め、日本の近代文化のために多くの業績を残しました。明治になり権田に隠棲しましたが、「反逆の企て」があるとされ官軍により非業な最後を遂げました。
 東善寺境内に小栗上野介父子の墓。彼のことは多分井伏鱒二が書いた小説があったと思います。権田は馬で有名な話が鎌倉時代に有ったのですが省略。



上と同じコース。向こうは浅間山。


コースから時々浅間山が。




















向かいの山を。





美しい斜面の芝生と唐松。


影と明るい芝生。


ゴルフ場入り口のもみじ。



同拡大


                                                以上

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2009年11月 3日 (火)

NO.218号 秋の陽射し、陶友の作品、杜の鍛冶屋作品、一輪挿し。

 今回は唐松の紅葉を編集の予定でした。ところがそれ以前撮影のものが編集漏れしていることが判りましたので、先に漏れたものを編集致します。

秋の陽射し。
 ハナミズキはその花よりも紅葉の方がが美しいと思う。
 嘗て吉川英治は滅び行くものは皆美しいと新平家物語の中で述べ、更にその美しさは落日に映える紅葉のような美しさがあると述べている。
 老境に入っている私から見ると春盛りの花よりも、惜しまれ散って行く紅葉の方に哀惜の感が深い。
 それは親しい友人が次々に亡くなり、それを偲ぶ感懐に似ている。
 自宅のハナミズキ。



 この家を建て直して丁度10年が過ぎ去った。あっという間の出来事だった。、後10年間生きられるかどうか判らないが、又あっという間に過ぎ去るのだろう。楽しく生きてゆかなくてはと、よく妻と話をしている。歳を取るほど過ぎ去る歳月が早くなるのだ。
 
 夏は陽が高く、庇に遮られて庭木の陰が障子に写らないが、今は大きく写っている。







 11月1日 雲
 空に変わった雲が。不思議なことに上の方に空飛ぶ円盤のような緑色のものが写っている。
 2枚撮影したが双方に写っているのだ。思い当たる事が無い。2枚目の写真の物体はこれよりも下に移っている。周辺は2階建て以上の高い建造物は無いのだ。


陶友の作品

 小鉢  作  越 美奈子 径13cm 高7cm
 何の釉か判りませんが、益子の釉のような気がしますが。釉の扱いにより濃淡を出されたものでしょう。


  鉢  作 同  径20cm 高11cm
 呉須に白釉と思います。地味なデザインですが飽きずに長く使用できる作品と思います。


 平皿  作 同   径15cm  高4cm
 単純なデザインですが清潔感の美を感じます。黒と白の対比が巧に表現されています。私好みの作品です。



落ち葉花瓶 作  杜の鍛冶屋  径12cm 高19cm
花瓶いっぱいに紅葉の落ち葉を描きたいと思い作りました。釉は既に施してあり、本焼きを待つばかりです。



 炎  作  同  径14cm 高23cmcm
 以前に炎の花瓶を作りましたが,気にいらずで、又挑戦です。釉掛けも済み窯入り待ちです。



一輪挿し  作  同
 209号で軽井沢銀座で見た一輪挿しを紹介しました。あれは小さな浅間溶岩に穴を開けた簡単なものでしたが、私は強い興味に捕われていました。
 花を飾るには先ず花を買います。花瓶に入れて生け花にしますが手間も費用も掛かります。あの一輪挿しは小さな野の花を穴に差し込んだ極めて簡単なもので、不精な私向きと思い、早速自分で作ったのです。
 焼き物にしたのが3個、浅間溶岩の小石を3個拾い電動ドリルで穴を彫りました。

 一個の大きさは小卵程です。穴は底まで突き抜けです。小皿に水をいれてその中にこれを置きます。そこへ花を差し込めば終わりです。駅の花屋で一束100円の花を買い。早速飾りました。














      安くて簡単こんな有難いことは有りません。      以上

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2009年11月 2日 (月)

NO.217号 浅間山荘事件、南軽井沢、北軽井沢、  

浅間山荘事件顕彰碑 、南軽井沢 薄(すすき)のよく繁る原の角地にそれはあった。軽井沢発地(ほっち)である。

 昭和47年(1972)2月19日。連合赤軍5名が河合楽器軽井沢保養所に侵入占拠し、31歳の女性管理人を人質にした。写真は保養所、手前は攻撃隊の警察官たち。
 初めは榛名山で赤軍派が革命の為に軍事訓練をしているのを察知した警察の包囲網から逃れての事であった。
 医者の田中氏が説得のため山荘に向かい射殺された。赤軍派はライフル銃や散弾銃で武装化されていたから、簡単に攻められない状態で、催涙弾や放水も効果が無かった。
 篭城10日に及び、ビル解体工事に用いるモンケンの鉄球が保養所の壁を破壊し、警官隊が一斉になだれ込み激しい銃撃戦を展開、赤軍派5人を逮捕した。女性管理人は無事だった。然し警官3人が被弾、2人が即死、一人が失明の重傷だった。

 事件後赤軍派の内情が判明したが、同志12人がブルジョワ派として処刑されており、世間に衝撃を与えた。
新聞もテレビもその報道が埋めつくした。
 当時の日本は順調な経済発展を続けており、何が不満で青年たちがそんな行為に出たか判らない。気違い行為としか思えない。今の方が就職出来ず若者は苦しいはずだ。

 この事件は共産主義を賛美のあまりの、当時の一部若者の暴走だったと思う。日航機ハイジャック事件や類似な事件が相次いだ。しかしロシヤが政治を自由主義に変えて以来、目が覚めたか沈静せざるを得なかった。今中国が世界の注目を集める発展を見せているが、これも中国共産党が方針を転換した成果である。
 20世紀は歴史的に見て、社会主義のテストと失敗の時代だったような気がする。大学にマルクス主義の学者がいなくなった。それは壮大な政治的実験の時代だったと思うが、違うだろうか。
 
 殉職死亡の二人の警官は42歳と47歳、残されたご家族のその後はどうなったか誠に御気の毒である。
 37年前の耳目を集めた事件も、遙かに遠い彼方のことになった。



 以下10月28日 何時も花が供えられて。これは殉職警官を賛え顕彰した慰霊碑


ススキが顕彰碑隣の野原で


碑の近くの家での柏の紅葉


鳥獣慰霊碑 長野県知事 揮毫


ピラミッドアジサイがこんなに赤く、塩沢湖の近くで。


ススキ群生、上の花の側で。


軽井沢最大のスーパー鶴屋駐車場で。名も知らぬ木に赤い実がいっぱいに。


上記の木の実拡大


10月29日朝 北軽井沢 朝霧の松林。





   以上   以下次号は唐松の紅葉(黄色の葉を紅葉というのは変ですが、スケールの大きなものです)

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2009年11月 1日 (日)

NO.216号 浅間の噴煙

浅間山の噴煙

 09年10月29日16時44分59秒、北軽井沢で車を運転していた私は窓外を見て浅間山の黒い噴煙に驚いて車を止めて撮影した。
 絶えず噴煙を吐き出している浅間山だが、普段の白煙が、黒煙であったのに驚いたのだ。白煙は火口に溜まる雨水が火山の熱で蒸気となり白い雲をとなるのだが、黒煙は火口の岩石を吹き上げたのだから驚いた。
 刻々と変わって行く噴煙の記録。
 ①


② 16時46分25秒 夕焼け雲は天然のもの。黒煙は次第に広く高く拡散を続けた。


③ 16時46分34秒、噴煙やや穏やかと思ったが。


④ 16時46分53秒、高空の風は速いらしく先の高い噴煙はもう見えない。


⑤ 16時57分23秒 風向きが変わる。


⑥ 16時59分12秒 夕闇次第に迫る。


⑦ 17時3分41秒 風向き絶えず変わる。


⑧17時6分58秒。黒雲天を覆うの感。

⑨ 29日17時10分04秒。 噴火更に活発化。


⑩ 29日17時13分01秒、急に噴煙が白に変わった。天が明るくなった。


 約30分の見物だった。
 何故こんなことになるのだろう?これは私の素人推理。火口の内壁は重なる噴火で崩れ、遂には火口を塞ぐのではないか。次第に噴火のエネルギーが溜まり一気に噴火して黒い噴煙が上がル。崩れていた岩石は噴火の掃除で火口が維持されれば噴煙は元に戻るのではなかろうか。噴煙が薄くなるのは雨水の溜まりが少ない時ではないか?掃除が旨く行かないと大爆発になるだろう。それは溶岩が火口近くまでセリ上がり火口を塞いでしまう場合でもあろう。鬼押し出しは噴火の最後にどろりと溶岩が流れて出来たとされ、大噴火と同時の所産ではないそうである。
  以下次号。次号は浅間山荘事件の慰霊碑、ススキや紅葉となります。既に資料が揃っています。

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2009年10月25日 (日)

NO.215号 大田黒公園

寄付で出来た公園
 
 荻窪駅南口から約10分程南に歩くとこの公園がある。昭和の音楽家として著名な大田黒元雄氏が住宅を杉並区に寄付し、区が更に土地を買い増して公園となった。スポーツは出来ない。10月21日訪ねる。
 公園が出来る経緯が下の如く解説されている。

  
 

杉並区郷土博物館で開催のポスターを撮影。この公園の場所ではない。


  この辺は静寂な住宅地として知られ、美しい余裕のある家が並んでいる。
  道すがら例により写真を撮影した。

 ハナミズキの紅葉


同 逆光で撮影、葉を透過した光の効果で葉の美しさが強調された。


 アメリカ朝顔


 門から銀杏並木が続く。紅葉すれば見事であろう。


 旧住宅の中まで自由に開放されていた。この広い部屋の左後ろにグランドピアノが有ったが、目下調整中で置いてなかった。椅子に座るのは禁止。立派な家具が並び右側ニ本棚が。


庭一望、池ガ幾つも。芝生に入る事禁止。


池を望んで。


緋鯉が何匹も。水が湧き出していた。








休憩室のアルバムを撮影。紅葉の頃だが何故かピントが合わない。。左の縦線はアルバムの折り目。

紅葉の頃又来て見よう。 私たち夫婦の外には2人の若者が居ただけ。閑寂そのもの。

                                             以下次号

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2009年10月22日 (木)

NO.214号 自宅の花、果物。近隣の花。

自宅の花と果物

(1)ホトトギス 鳥の不如帰の胸羽に似ていることから命名されたそうです。


(2)同 写真は見易いように拡大しています。一つの花びらは1.5cmくらいしかありません。繁殖力が強く自然に殖えます。


(3)紅葉の始まったハナミズキに赤い実がつきました。


(4)実を拡大


(5)柿が熟し始めました。


(6)蜜柑も熟してきました。しかし柿も蜜柑も木が若く、未だ沢山は実りません。両方とも植えて9年目です。


近隣の花
(7)印刷屋さん前で 左の白い花はナデシコ、右のピンクの花はカランコエ(ベンケイソウ科)?


(8)キンモクセイ 多くの家で咲きました。今(09.10.22日)では花は散りました。


(9)花びらと花粉が道路脇を彩りました。


(10)石畳の上にも


(11)ピラカンサ 印刷屋さんの前で


(12)ムラサキシキブの実


(13)教会通りカレー屋さんの前で デュランタ・レベンス(クマツヅラ科)


(14)同 カクトラノオ


(15)同 カライトソウ


(16)教会通りパン屋さんの前で  キク科のルドベキアの一種?


(17)公衆電話の上に生け花が、絶えず花を換えてくださる方がいるのです。これ09年10月15日 左の花はアルストロメリア  右の花はラン科のデンファレ


(18)これは10月21日です。ピンクの花はラン科のバンダ


(19)


(20)ペンタス

(21)トレニアか?


(22)ゼラニューム


                                                  以上

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NO.213号 陶友の作品、杜の鍛冶屋作品、  

 

花瓶 作者  允 (まこと)  
この作品を遠くから見ると、普通の作品との異なりが鮮明になり
印象に残ります。  径18cm 高20cm 

 同 別面


 茶碗 作者  セシル

 径10cm 高9cm 白釉に織部
 柔らかな美しさが作品を引き立てました。


 同 流し釉と云う慣れないと難しい技法に挑まれました。私もこれに随分悩まされました。
 径10cm 高6.5cm


 同


 作者 石川由起子

 ぐい飲みか、楊枝立てか?作者から聞きもらして判りません。
 可愛い小さな形が何ともいえない見事な作品。
 赤土に釉を2種混ぜたものと思います。
 径5cm  高5cm


 同 コーヒー茶碗  径11cm 高9cm
 釉の効果が見事に出ました。


 同 小鉢 この形は楽そうで難しいと思います。私は未だ作った事がありません。


 同 これは器というよりもオブゼというものでしょうか。器に蛙だと思いますが面白い
作品です。凹凸があり、伊羅保釉を巧みに生かしました。
 径11cm 高9cm


 同


 皿  作者  杜の鍛冶屋
 径14.5cm  高4.5cm 赤土、白泥、白釉、織部。


 同 鉢 径14.5cm 高7cm 鉄、白釉


 同 真上から


 同  小鉢 白泥 、鉄,白釉  径13.5cm 高5.7cm



                                          以上

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2009年10月21日 (水)

NO/212号 柳 海剛 梅瓶、唐三彩。

 柳 海剛の梅瓶 (りゅうかいごう のめいびん・ またはばいへいと読む)
 彼は18才で高麗青磁の復元を志す。この焼き物は既に600年前に製作が絶えて技術が失われた侭であった。
 韓国全土を巡りその地の土で試作を継続。遂に現在の柳海剛窯の場所の土が適合することに辿りつき窯を築く。
 青磁は土の鉄分含有量で決まるそうである。
  韓国では 柳 海剛 の作品は輸出が許可制で、簡単には輸出が出来なかった。つまり海外への流出を警戒したのだろうと思う。個展の作品には輸出許可を示すアルミの承認証が貼られていた
 海剛 が没したとき、韓国政府は急ぎ彼の作品を買い集めたが大部分が好事家ものであり、わずか3個の梅瓶しか買えなかったと海剛記念館で聞いた。3個は国宝になった。
  本人の韓国での氏名は 柳 根濚 読み方は ユ ヘガン

 
1894年生~1993年没・99歳
 明治27~平成5年まで生きる。
 。1894年生~1993年没・99歳。
 明治27~平成5年まで生きる。
 
  海剛の作品が日本で売買されるとしたら、輸出承認証が有るか、又は若い時の作品以外には考えられない。
 推測だが当時韓国は輸出が思うにように振興せず、外貨の獲得に苦労していたような気がする。その一環としての海剛 作品の三越個展が成立したのではないか?以後同じ催しは聞かない。だから海剛作品は日本では少ない筈である。
 一時海剛の作品として 大量の偽物が出回った事がある。悪い人がいるものだ。

 下の海剛梅瓶はその個展で私が1973年(昭和48年)に買ったもの。お金が無いから株式を売り、やっと入手した。
 左の肩に承認証が見える。これ買ったときは金色に輝いていたが、あれから36年が経過してアルミの白に変わった。
 国内の取引が少ないためか、価格は安いと聞いた。
 この写真では承認証が金色に見えるが、これは光線の具合。下記のように白である。

 下記は三越美術部の展覧会の挨拶状を転写




 柳 海剛 作  梅瓶

 径25cm 高44.5cm


 輸出承認証


 唐三彩 香炉
 これは親戚の者が台湾の故宮博物館に行き、買ってきた絵葉書の転写です。
 唐の国は618~907年までの289年間続いた。徳川幕府より24年間長い。判り易く云えば8世紀に中国で栄えた
国であり陶器で著しい進化を見せている。これが作られたのは多分洛陽であったと思う。洛陽が唐の陶芸中心地であったからだ。京都のことを洛というのは、この洛陽から来ている。京都の都市計画に洛陽を模写したからとされている。
 嘗て唐三彩の展覧会が上野の国立博物館で開催され、優品多数を拝観した経験がある。

 このような宮廷の財宝が何故台湾にあったか?普通なら有り得ない事である。それは中国国民党が共産党との戦いに負けて台湾に逃げ込み、財宝を北京から約半分を持ち去ったからである。従って故宮博物館は北京にも有るのだ。
 この財宝は北京にあった以前に日本の侵略を避けて2度動かし、中国南部や重慶に置かれたこともあったのだ。その動乱の中で散逸も無く、よく保存が出来たのに感心する。

 香炉の見事さを見てしみじみと思うことである。




                           以上

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2009年10月15日 (木)

お詫び 211号の火焔土器の記事編成中 誤動作で編集中途の記事が登録されてしまいました。 新しく編集の211号に直しましたので、改めてご覧下されば幸甚です。

記事を記入します

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2009年10月12日 (月)

NO.211号 火焔土器

 嘗て日本経済新聞が火焔土器の特集記事を掲載した事があった。その文中にあの土器が作られた時代には恐らく世界一美しい器だったであろうと記事を読んだ記憶がある。

 あの土器が作られたのは縄文時代中期らしいが、何でも今から4500年以前頃ではないかとされている。
 そんな古代にあの素晴らしい作品が日本国内だけで多種多様な形で大量に作られた事実は驚嘆に値する。そんな昔既に素晴らしい文化が国内で産声を上げていたのだ。

 あの作品は現代の芸術と比較しても何等遜色を感ずるものではない。その発見は1936年、新潟県長岡市の馬高(うまたか)遺跡の発掘で発見された。発見は近藤勘治郎・篤三郎親子が大晦日に発見したのだ。
 今から73年前の事だった。4500年もの気の遠くなる歳月地中に眠り続け、その間誰にも発見されなかったのが何か神秘を感ずるものだ。

 その製作は縄文時代に栄えた侭遂に継承されることは無かった
 新発見以後幾つもの発見が現在まで続いており、新潟県の信濃川流域が特に多く、県内各地、長野県北部、福島県西部、東北南部等発見地域が拡大している。既に国宝になったものもある。

 或る発見が縄文遺跡の住宅の柱の穴の底にあったと云うから不思議だが、そのために完全な形での取得が多かったそうである
祭器であったであろう事に異論は無く、その為に大事にされ、生き残ったのであろう。日常用品なら壊れて無くなったと思う。
 嘗て10年以上前に上野の国立博物館で火焔土器の展示があり、私はそれを見てひどく感動し、何時かは作りたいの気持ちを持ち続けて来た。

                 岡本太郎 火焔土器を高く評価
 火焔土器は日本が世界に出せる最高のものである。と彼が評価し、以来普通の陶芸と見
なされてい火焔土器が一躍優れた芸術と評価され始めた。正確にそう云ったかどうかはは判ら
ないが、そんな記事を読んだ
記憶がある。彼が初めて見たのは国立博物館でのことであったら
しい。
   
 火焔土器は2種類に分かれる。

 火焔型土器 上部に鶏頭冠を持つ。

 王冠型土器 上部に短冊形の突起を持つ。

 2種の土器は何故かペアで発見された事が多いのは、対立する二つの何かの関係を語るものと思われる。

                    驚くべき数の土器出

 1996年、道尻手上段集落の南側で調査があり、田の下から敷き詰められた密集度で、大規模な土器群が
が出土した。それは縄文中期から後期まで重層した土器の破片が40万点という物凄いものであった
 以後6年の歳月を経て200個体ほどの様々な土器が復元された。
 然し、そこで復元された土器の姿が何故かインターネット上に出ていない。その土器一個の半分の写真しかないのだ。
道尻手遺跡がどの町にあるのか?記述がない。
 津南町だけで200の遺跡があるそうだから、地元の人は理解しても読み手には判らないのは寂しい。
 
                      十日町博物館
 
 ここに国宝になった火焔土器があることが判った。以下の記事は十日町博物館のホームページより転写。

 




 十日町市博物館の記事はこれで終わりです。写真撮影は当館が行い、そのホームページからの収録です。杜の鍛冶屋撮影のものではありません。


 火焔土器 火焔土器を作りたい一心で、試みの作成。

 
 作 杜の鍛冶屋  05年5月作成。76歳陶芸を始めて一月目の作品
 幅37cm  高43cm   赤土 白釉


 同
 幅33cm 高36cm 普通土 黒釉  09年9月80歳 作成  先号で掲載済み
 

 
 何故二つの作品を並べたか、それは作成間隔が4年あり、4年間でどれだけの差が生じたか?を比較したかったからです。
残念ながら4年前の作品の方が変化に富み気力が充実しているように感ずるのは年齢の違いのせいか?元気をださなくてはと思う。

 新潟で発掘の火焔土器
 4500年前の作品。国宝も含む。
 とにかく本物の凄さはとても杜の鍛冶屋の比ではない,云うまでも無く全て素焼き。千度を越えたと推定される。、
高温をどうし得たか判らない。
 インターネットで各博物館より転写。掲載写真が小さく、大きく写し出せません

 国宝  王冠型土器  新潟県十日町信濃川右岸(川下に向かい右側)段丘上の笹山遺跡で発掘。十日町博物館所蔵。



  火焔型土器
  信濃川西岸 長岡市 馬高(うまたか遺跡で発掘 縄文中期) この土器でも ドキ!!ここだけ写真拡大出来ました。
 、縄文中期。


 王冠型土器 津南町 堂平遺跡 高39.5cm 国有      王冠型土器 縄文中期 津南町堂平遺跡
 4500年前、最盛期

何とも云えない美しさが続く。これ作った人達どんな人だったのでしょう。    
 左 津南町代表的 火焔型土器
 右 津南町 道尻手遺跡 火焔型土器

                                                                         
左 道尻手遺跡 初期 火焔型土器            右 国内最大の火焔土器 高60.7cm 威風堂々で素晴らしい。
 
沖の原遺跡 1953年出土 縄文中期 津南町歴史民族
 資料館蔵 新潟県指定文化財 

 以下 王冠型 3個







 インターネット「火焔街道」より収録の部分説明です


 変わった土器
 左 猿の顔に見えるが。                        右 人が叫んだ顔に見える。

                                    以上



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