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2009年8月28日 (金)

NO.202号 天草への旅 第三章

 天草下島

  いよいよ目的の天草に上陸。沢山の島があり、地図に載らない岩礁のようなのも散見される。
  大抵の島は橋で繋がるか、又はいくつものカーフェリーで有機的に繋がっている。
 
  最初に見たのがイルカウオッチングだった。イルカの群れが泳ぐのを漁船から見るのだ。一隻に数人しか乗れないから二隻に分乗した。
  バスガイドが行って見なくてはイルカが居るか居ないか、全くわからない、居れば幸運だと云っていた。

  20分くらい海上を走っただろうか、同じような客を乗せた小舟が数隻同じところに寄って来た。
  あっ居た!居た!皆が叫んだ。船の直ぐそばにイルカの群れが浮き上がり沈み込み、潮を吹きながら親子兄弟が寄り添うように、舟に並んで走るではないか。
  皆が写真を撮り出したが、これがとても難しかった。何処に浮き上がるか判らんし、イルカにカメラを向けると沈む方が早いのだ、やっと撮影したのが次の写真。





 舟はエンジンをフルにして基地の港へ帰り出した。静かな海面を舟が激しく踊らせ面白い造形を作り出した。波の表面が微妙な形を瞬時に作り出して行くのに驚いた。カメラでないと見られないし、大きな高い船からは到底撮影できない風景だろう。


 着いた小さな鄙びた漁港は静かな可愛いほどの港だった。

 
 近くのホテルで翌朝、目覚めたら朝日が昇り始めていた。8月18日午前5時59分であった。
 5階のベランダから。これ以上前に出られないので一本の木が邪魔だが仕方がない。潮の流れの模様が美しい。



  18日は天草下島、天草上島、大矢野島など、キリシタン遺跡を尋ねた日である。
 隠れキリシタンを地図で見た感じでは天草下島の南西に集中していたのではないかと想像した。
 そのあたりに明治になってから建てられた天主堂が2棟あったし、一揆の騒動からはかけ離れた場所であったからと、推定したからである。
 あの一揆に全てのキリシタンが参加した訳ではない。一揆4萬人近い人数では人が不在となってしまった地域も結構あったのではなかろうか?
 一揆不参加の地域を一揆収束後幕府が捜査した結果では、この地域に5千人の人口があり、その半分がキリシタンであった。その2千5百人を処刑したら、只でさえ人口が戦いで激減した上に更に減らしたら、産業が衰微し困るとして、禁教令の強化と仏教への帰依強化政策のみに切り替えたらしい。
 あの戦いは領主の圧政で、食べるものを全て租税として無理やり取り上げられ、生きてゆけない状態に追い込められたのが主因で、従わない領民を極刑に処したのだ。折から凶作と重なり、禁教令も厳しく、それが爆発の根拠になった。一揆旗揚げは下図談合島(今の名は湯島)で行われた。
 本来2万石の場所に4~5万石に相当する課税をしたのだから、殺されても戦う決意が生まれても当然である。
 隠れキリシタンは天草諸島に広く居ただろうが、天主堂の大きな建物を建てるには纏まった人口が、そこになければ成り立たないと思う。その地域に隠れキリシタンが密かに300年間維新までを多く生きてきたのだ。

 下の地図は一揆画策が行われた島とされる「談合島」。高山右近もキリシタン大名で消された。フィリッピンに移住したともされる。浪人がこの地域で大層大勢輩出、彼らが各地で農民指導者となり、一揆の指導者となったのが私見。農民だけで4万近い人数の組織化は出来まい。


 上の地図で大矢野島が天草四郎生誕の地と書いているが、正確には判らない。然し後年ある家の石垣の中で発見された四郎の墓はこの地の四郎メモリアルホール(追悼館)の場所にある。多くの意見でそうなったものであろう。
 
 話が大分横にそれた。バスは天草下島の朝日を撮影したホテルから9時半に走りだした。そこは島の地図の北辺から南下する形で走り、暫く田園風景を見たが、直ぐに山間部の道になった。曲がりが多い狭い渓谷に沿い、相当長い時間が掛かり海辺に出た。その間村落らしいものは皆無、たまに家があっても傾斜地に僅か数軒の家があるだけ。あそこに住む人の生計は何で賄って居るかが不思議だった。
 山が有れば山林業でも出来るか?と思ったが、見た山は急角度に屹立した山ばかり、とても歩いては登れない山ばかりだから、植林の気配は全く無いではないか?
 今でこそ車の通る道が有るが、昔は細い山道で行った先の海岸沿いの地域とは隔絶しており、一揆とは関係なき地域だったことが判るような気がした。
だから一揆に不参加だったのだ。

 海岸沿いの道は断崖沿いのトンネルだらけ、それだけ屹立の山が海に迫っている。だから平地は極めて少ない。この島全体の何%が農耕地なのか?それはバスで動いて極めて少ないと思わざるを得なった。多くの租税が取れると思うのが可笑しい。領主は江戸幕府の江戸城の拡張工事に奉仕して栄達を望んでいたのだ。思わず馬鹿!!と云いたくなる。結局その地の領主は廃藩の処置を受けた。

 関ヶ原合戦が1600年、家康の死が1616年、その16年間に家康は一国一城の制を定め、外様大名をこつこつと減らして行ったのだ。これを以降の幕府も継承し、その為浪人の累増となり、社会問題にまで発展し、後に幕府も政策転換を余儀なくされた。
 江戸城が今の巨大さに達したのは、漸く3代家光の時、1636年であり、奇しくも島原、天草の乱の始まりが1637年であったことを思うと、丁度浪人が激増した時期と一致する。

 海岸に到達したバスは下記の場所に止まった。

 崎津天主堂とその周辺
 絵葉書より転写





教会は出入り自由で無人。





教会の庭の池 緋鯉が綺麗


 同


 同


 同


 同


 同



 18日一日で旅行が全て終了したが、、旅の記録は未だ終わらない。 つい歴史観を述べたり、花を撮影と何とも忙しい話だ。読まれる方はどうか適当にお読みになってください。

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