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2009年9月 1日 (火)

NO.203号 天草への旅 第四章  口之津はキリスト教の布教根拠地だった

 ここまで書いて来て書き落としに気づいた。



 
口之津の大きな歴史を書き落とした。それは口之津に嘗て南蛮船が渡来していたのだ。
 16世紀後半は世界が非常に活気を帯びた時代であった。国内でも力のある豪族の台頭が著しく戦国時代で、天下統一が成し遂げられている。南蛮船が漂流して日本の南西部に屡何回も着岸していた。
 口之津に南蛮船が何回来たか判らないが、宣教師の渡来と布教、更に学校の建設までが口之津で行われた。学校は初等と高等の2校だった。
 
 布教が効果を挙げ、幾つもの大名がキリシタンとなり、同時に家来、農民に浸透して行った。大名が帰依したのは海外の珍しい文化吸収というオマケに大きな魅力があったからだろう。文化の普及は宗教の普及に付随した。
 島原・天草の乱後、幕府は徹底的に口之津の学校を破壊し、今は何処にあったか不明になった。

 布教全盛の頃イエズス会の巡察使が3人のキリシタン大名に提議して、少年を4人欧州へ派遣することになった。感受性豊かな12~13歳の少年4人が選ばれた。多分その学校の優等生と思うが、詳らかではない。有名な天正遣欧使節である。行きも帰りも長崎で、舟もポルトガル船。旅は1982年~1590年に及んだ。
 帰国した時は禁教令の悲劇が待っていた。


 崎津天主堂再建者 ハルプ神父 フランス人 1945年(終戦時)80才で永眠 右はその墓
 

 旅では面白いマンホールの撮影が欠かせない。崎津は漁港らしいマンホールだった




  天草下島の尋ねた地域の地図。前の記事で隠れキリシタンの多いところと紹介した。
 天草ロザリオ館

 崎津天主堂から我々は天草ロザリオ館に移った。中での撮影が許されないので戴いた案内書から転写しました。
 500点ものキリシタン資料を集めた資料館









 隠れキリシタンの家の中にこのような隠し部屋が作られていて礼拝していました。人物は人形。


 係りの人が説明して呉れました。坊さんがお経を上げて葬式を済ませて帰ると、仏式で使ったお経やその他のものを直ぐこの壷に放り込み蓋をして、キリスト教式葬儀でやり直したそうです。私はこの壷に大層興味を持ちました。大きなものではありませんでした


 ロザリオ館の花

ルドベキア(キク科 北アメリカ原産。 一口にルドベキアと言ってもいろんな種類があるようです。)


ポーチュラカ





 ここからフーフー云いがら高く登りました。岡の上に大江天主堂が聳えていました。


 大江天主堂 



 内部撮影禁止だから、絵葉書より転写。





 ともに行きし 友みなあらず我一人 
      老いて又踏む 天草の島  吉井 勇 100号歌碑




 白秋と ともに泊まりし天草の 
   大江の宿はバテレンの宿  吉井 勇 100号歌碑





  第四章をおわります。次の第五章で完結となります。  
  選挙が終わった。政局を担う人は大変だ。百家争鳴の中どう舵取りをして行くか?
  好きな言葉にこんなのがある。 天下これを信じて多しとせず 一人これを信じて少なしとせず。信じる道を行くしかない。
                                            09年9月1日 杜の鍛冶屋 敬白

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