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2010年4月

2010年4月29日 (木)

NO.270号 安曇野の古民家

 4月初め安曇野の古民家を訪ねる機会がありました。

 本棟造りの家 ほんむね造りと読みます
 松本平の古い大きな民家にこの形の家が見られます。この屋敷は敷地2千坪、この家が母家(おもや)で土蔵が9棟も有る大きなものです。
1、810年(文化7年)の建築ですから今年で築200年を経たことになります。その年に幕府が江戸湾沿いに砲台を築造しており、間宮林蔵がその2年前に樺太の探検をして、間宮海峡を発見しています。

 明治維新が1,868年ですから維新前58年の建築になり誠に貴重なものです。
 永年造り酒屋として栄えたようです。造り酒屋は大地主が年貢米を使い酒造りをしたようですからこの家もそんな歴史があったのでしょう。

 下のご案内に国の登録有形文化財に指定とあります。この様な貴重な本棟造りの家が消えてゆくのを物語たっています。
 蔵久というのは家の持ち主の I 氏が貸している店です。花林糖は菓子のカリントウです。私たち家族はこの母家の座敷で美味しい蕎麦を頂きました。




 現在は酒造は行わず、近隣の同業3社が共同で工場を建て別の場所で製造しています。
 次の写真は屋敷を東側から北アルプスを背景とした撮影です。
 この写真をご覧になって、どこかで見た様なご記憶があるかも知れません。
 それは、酒の本に掲載されたり、「犬神家の一族」という映画に出て来ました。映画の事件がここで行われたのではありません。筋書きとして利用されたのです。
 最近旅行会社のバス旅行で、よく農家の古民家での食事がありますが。これほどの古い立派なところは有りません。この家の座敷で美味しい蕎麦を食べましたが、静謐な安曇野の田園に結構多くの客が入っていましたから、知られるようになっているのかと思いました。
 背景の北アルプスの山は左が常念岳、右が大天井岳で、槍ヶ岳は常念岳の左裾に遠く小さくなっています。、
 屋敷は左に更に長く、右端の家までか該当します。


同庭園
座敷から庭園を望む。今は蔵久の食堂として使用されています。私たちはこの食堂で昼食に蕎麦を頼みました。





年代ものの雛群


この地方独特の貼り雛 やや傾いての撮影で失敗。


同貼り雛、ガラスケースの反射で旨く撮影できず



 余談  カリントウの話
 私の母は大分前に90歳で亡くなりましたが、明治29年生まれで、安曇野の穂高町で育ちました。私の幼少の頃よく穂高町の色々のことを私に語ってくれましたが、その中に新宿の中村屋のカリントウの話が何度も出て来ました。
 新宿中村屋の創始者は相馬愛蔵で明治3年同じ穂高で生まれ松本中学(現・深志高校)を経て東京専門学校(現・早稲田大学)を卒業し活躍を展開しました。
 本郷赤門前の中村屋を譲りうけてインテリ層に広まり始めた食パンの販売を始めました。明治40年新宿に拠点を移しました。
 何時の頃か判りませんが愛蔵は故郷の美味しかったカリントウの製造販売をしようとしますが、穂高のカリントウ屋に頼んでも製法を教えてもらえません。
母の言い方では口に入れるとホロホロと口中で崩れてその美味しさは忘れられなかった。との事でした。
 愛蔵は諦められず、結局家族の生活の保障を約束してそのカリント屋の全部を買い取ったそうです。ですから穂高にカリント屋はなくなりました。
 中村屋がカリントを売り出したときそれは売れに売れたとの事ですが、穂高のカリントが日本で始めてのものであったかは不明ですが、東京には無かったのではないでしょうか。蔵久がカリントに力を入れているのと穂高のカリントは何か関連があるのかは判りません。今は全国で売られているカリントですがそれが安曇野の発祥なら面白いと思います。愛蔵はインド独立の志士ビハリ・ボースを庇護したことで知られています。

 カリントの原型は江戸時代に練り小麦粉を棒状にして揚げたものだとの説がありますが、黒糖を使った今のものとは違ったようです。
 相馬愛蔵の履歴については、深志高校130年記念誌に詳しく掲載されています。

 ブログ掲載の蔵久本店の住所
 長野県安曇野市豊科高家604 電話0263-73-0170 蕎麦は売り切れになるので予約が安全
 豊科高家の読みは とよしなたきべ 営業は10時 ~17時                                                                                           以上
 

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2010年4月23日 (金)

NO.269号 諏訪高島城。

 要害は必ず兵禍を被る(こうむる)、これは高遠城の解説に書かれていた。戦いとは城の取合いだったのだろうか。
 幾つもの城の歴史を調べて見ると、城主が絶えず替わっているのに気付く。それが戦国時代というものであった。安定的に同じ城主が続くのは徳川の代にはいってからである。武田信玄は自分の建てた城を持たないことで有名である。もしかしたら彼は城を建てるよりも絶えず外敵を攻めていれば、攻撃こそ最高の防御であるとの信念の持ち主だったような気がする。

 戦好きの彼は攻める方が築城よりも安上がりで、周辺に脅威を撒き散らしていれば、攻められないことを知っていたのではないだろうか。攻めて領地を取れば資産と収入の増加を招き、取った城に部下を入れて城主にすれば、部下は喜び忠誠心を増してくれるし、版図の拡大を招くのだ。

 だから信玄はこつこつ、ねちねちと絶えず小さな城を攻めて上杉謙信を立腹させていたのだ。川中島の決戦でも最後は結局信玄の勝ちであった。その点では家康に似ており、家康が信玄を尊敬していた理由が判るような気がするし二人とも経済に詳しい知識を持っていたようである。

 高島城の花
 私が小学生のとき家族で諏訪温泉に一泊したことがある。記憶では鷺(さぎ)の湯という立派な宿だった。そのときの城は石垣だけで、何も無い無味感想のものであったが、今回は天主閣も桜もあり、よく手入れされて観光価値を産んでいた。
 観光バスではこの城を1時間ほどの見物をした。
 城は以前、諏訪湖に突き出した小島に建てられていたが、諏訪湖の水面を下げる排水工事で今は町中にある。
 排水前の城は湖水に浮かんでいたように見え、浮き城と呼ばれた。
 天守閣











サンシュウの花














 諏訪は温泉が豊かである。次の写真は城に温水を引いた設備の一つ。



                                           以上

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2010年4月21日 (水)

NO.268号 高遠城

 高遠城
 回顧  この城は266号に掲載した2代将軍徳川秀忠の隠し子 幸松事、後の名君 保科正之(ほしなまさゆき)が成人し城主となった城であり、遡れば武田信玄が伊那地方統治の拠点としました。武田勝頼の代に織田軍に攻められ落城し、武田家が滅びる端緒となりました。
 徳川時代内藤家が城主となり、維新まで永く続きましたが、維新で城は解体されて城跡だけとなりました。

 旧藩士たちはここに沢山の桜を植え続け、歴史と桜の名所となって春には膨大な観光客を集め、天下一の桜と讃えられるほどになりました。
 山城であり、空き堀にも桜が咲き、立体的な景観が見事でした。

 私たちは朝早く現地に着かないと、バスが城より遠い駐車となるという事で、早めの出発となり、城の直ぐ下に駐車出来ました。然し駐車時間が1時間の制限でしたから、時間不足は否めませんでした。好天素晴らしい桜花の展開でしたが、時間不足が残念でした。
 沢山の写真を撮影しました。解説は殆どありませんがご容赦ください。撮影は4月14日で写真を29枚掲載しました。



中央アルプス。望遠で撮影。













































































帰りを惜しんで車窓から。





                                        以上、 以下高島城で旅が終わりです。

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2010年4月20日 (火)

NO.267号 バス旅行・山梨新府城、桃源郷、伊那光前寺、高遠城、諏訪高島城

バスの旅
 4月13日~14日の2日間夫婦で上記の見物をしました。今年の天候は誠に不順で困りますが、今回の旅は奇跡的に好天に恵まれて幸せでした。
中央高速談合坂で最初の休憩がありました。下3枚はパーキングでの風景です。








山肌の緑でないところは桜です。


甲府盆地、走行中のバスの中から撮影。白雪をかぶった南アルプスが霞んで見えました。



 新府城 武田勝頼が新しく建てた城。甲府の北西に位置し、領域の中心に存在。
 天正3年(1575)長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から天正9年12月に新府城に本拠を移した。この城は韮崎(にらさき)の甲州街道に沿った極めて巨大な城であり、要害で殊に西に7里岩の断崖絶壁があり正に完璧な城であった。建設は真田昌幸(幸村の父)が命じられ,国中の人夫を動員し昼夜兼行の急ピッチで進められた。
 これは織田徳川連合軍の侵攻を察知した行動と思える。着工は天正9年(1581)だった。

 信玄により広大に膨張した武田の支配地は甲州に加え信濃の大半、上州(群馬)西北部の一部、駿河の一部とに及ぶ巨大なものであった。戦国の緊張情勢の中で本拠の城がないことは6年前の敗戦を考えると不安な状態であったし、全軍統治の権威の為に領地の中心に巨大な城が必要であった。6年前の敗戦以前は、勝頼は連戦連勝で、武田騎馬軍団は信長や家康にも恐れられる存在だったのに、天正3年の大敗は多くの部下を失い、意見した重臣の忠告も受け入れず信望を失いつつあったのである。
 その中での強引な大工事は国の財政、人心の離反等マイナスの発生を招き、武田氏衰運の原因を招いた。



 新人物往来社刊「新府城」の写真。(インターネットで取材)この盛り上がった山塊が城である。この城は八ヶ岳裾野の南突端に位置し、写真に見える7里岩が防御に有効と見られた。写真の更に下を釜無川が流れている。城の領域は南北7~8km、東西2kmと説明されている。。
 (下の写真の左が北) 巨大な遺構である。


 観光バスは新府城と続く桃源郷の駐車場に止まったが、新府城へ登った人は私だけで、外の人は花の桃源郷へ向かった。
 それは駐車時間が少なく、両方見られないからであったし、参加者は皆老人であったからだと思う。然し歴史好きの私は以前からこの城に大きな興味があり、無理だが急いで登り、下って桃源も加えて撮影した。城の登り口から一直線の階段があったが(近年の設置と思う)、急坂で随分高い。垂直の高さは100m近いと思われた。81歳の私には負担であったが、見たい一心で敢行した。頂の広い本丸跡は桜が多く満開だった。短い時間だったが暫し昔を偲ぶことが出来た。

  この城を武田勝頼が放棄したのは新府城へ転居後僅か3ヶ月後の天正10年(1581)3月6日であった。次々の戦況が思わしいものでなく何れこの城に敵が来る事が想定され、未完成の城では戦えないとの判断であった。その為か城跡には石垣が無い。

 一方で伊那高遠城は信玄が奪取した城で、豊かな伊那地方を統括する大事な城であった。この城を信長が長男信忠に5万の軍勢を与えて(徳川勢は駿河口から甲州へ攻め込んだ)信玄なき後の武田家を一気呵成に攻め亡ぼそうとしたのである。織田軍5萬に対して高遠城を守る武田勢は3千人のみ。
 織田信忠は降伏を薦める使者を派遣したが、ここを守っていた仁科五郎盛信(信玄五男で信州北安曇郡の領主の仁科家に養子)はこれを拒否した。
 盛信の勇敢なる戦いぶりが語り草になるほど歴史に残されたが,凄惨なる戦闘の後に遂に城勢全員が玉砕した。この落城の情報が勝頼に早く届いていたかも知れないし、織田勢を更に振るい立たせるものであった。
 その外にも勝頼を落胆させたのは、天正10年2月、親戚筋の木曾義昌(信玄の娘を娶る)の離反だった。勝頼は木曾を討たんとして諏訪まで行軍したが、そこが既に織田勢のものだった。高遠落城と一族の離反が味方の離反を促進させた。木曾の離反は新府城の木材提供の勝頼の命令が過酷だったことが離反の発端で、それが多くの武将の離反を誘発したらしい。木曾から新府までの木材の輸送は想像を越える難事だった。
 
 天正10年3月6日早朝、勝頼は新府城に火をつけ炎上させ、城を離れた。各所からの人質が解放されず、火の中で死んだ。泣き悲しむ声が天にも届くほどで言葉に尽くせない哀れさだったと信長公記にある。
 この戦いに秀吉は参加していない。彼は高松城の水攻めの最中だった。
 
 新府城本丸跡、地表を覆った花びら
 

 同


 新府城を離れたとき、勝頼に従ったものは総勢で200名、内騎馬武者は20名に過ぎなかった。
 嘗ては萬単位の兵を率いた勝頼の凋落であった。既に武田の崩落を悟った兵たちが一斉に逃亡離反に動いた後であった。勝頼主従は小山田信繁に言われる侭に、その岩櫃城を目指すが信繁の謀反で道を変え自害し、北条氏からの19歳の妻も後を追い、そこまでついて来た40余命の男女も自害した。新羅三郎以来の28代続いた名門甲斐武田家の終焉だった。その場所は田野と言われる山中で、家康が建てた立派な寺と勝頼夫妻及び従者の墓がある。
 
 余談  先年の事だが、埼玉県の小川町の小川カントリークラブへ行ったときに、丘陵のそのコースに池が沢山あり、その池はこの地を領した信玄の弟が灌漑用水として建設した溜め池だと知り驚いた。彼は家康に仕えて大阪の陣にも出たらしい。その墓はゴルフ場の裏手の寺にあったから参拝した。武田家が存続していたのだ。その溜め池のお陰でこの辺は旱魃が無かったそうである。善政を敷いたと思ったが、大碌の武士ではなかったようである。家康は信玄を尊敬していたから信玄の関係者に好感を持ったのだろう。

 同


 同


 同一部拡大


 武田勝頼の死後3ヶ月後、天正10年6月2日、本能寺の変が起こり信長が死んだ。この天正10年は引き続き歴史を覆す大きな事件が相次いだ。秀吉と光秀の山崎の合戦が息つく間もなく起こっている。この間に新府城に大きな影響が及ぶ戦争が起こっていた。

 武田領の支配者が安定決まらないうちに信長が死んだから、家康がその虚を突き占領に乗り出したのである。彼はあっという間に甲州と信州を自分のものにしたのだ。自国の駿河,遠江(とうとおみ・俗に遠州)に加えると旧武田の領域に匹敵するだろう。彼は天下の目が山崎の戦いに向いていたとき、幸運にも大々名になってしまった。しかし只で手に入れたのではなかった。彼は新府城の修築を始めた。そこへ関東の北条氏が攻め込んで来たのだ。
 北条も無手で武田の地を分捕ろうとして家康の数倍の軍を向けて来た。幾多の戦いで家康は既に戦さの戦い方を熟知しており、難なく北条を追い払ってしまった。北条に戦略がなかったのだろう。鈍重にも思える家康にこんな機敏さがあったのだ。信長は武田を滅ぼしたときに甲州は家康に進ぜると言ったと私は思う。それまでの家康の協力を思えば有りそうなことだと思うし、信長には中国地方や四国、九州という大きな目標が有ったからだ。

 高い階段を下ると甲州街道、これは新府城の堀跡。


 城に接した桃源郷


 同一部拡大左方は新府城の堀跡。


 新府城から中央高速に乗り → 信州諏訪盆地 → 伊那谷を走り南下する。高速道に沿う桜が美しい。 → 光前寺を目指す。この寺は長野県下で善光寺に次ぐ大きな寺で、開創1、150年の古寺である。右の山々は中央アルプス。


光前寺


 杉巨木の並木、望遠レンズで迫力を出しました。人と較べると杉の大きさが判ります。


三重の塔                              参道

続 参道


線香棚引く本堂


ここは桜の名所でもあった。
















                                                          
                                                              以上
                               この後高遠城と高島城に続きます。

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2010年4月16日 (金)

NO.266号 新宿御苑の不思議、内藤家とは?

 新宿御苑の不思議
 265号で御苑の桜を掲載しました。 私が新宿御苑のことを不思議に思ったのはその広さでした。
以前に内藤新宿という言葉をよく聞きました。何故内藤が付いているのか?判らないので年寄りに聞くと、あの土地は内藤という大名が持っていたからだと説明されました。

 内藤などという大名など知りませんし、あの広大な御苑の地所を持てたことが不思議でした。その広さは徳川御三家の江戸屋敷よりも広いのです。
 御三家よりも広い地所を江戸に持つ大名となると、より将軍家に近い大名になりますが、内藤家を調べると3万石余の扶持しか持っていないではありませんか。内藤家が高遠城に入ったのは元禄4年で以後維新まで続きました。後に述べる保科正之とは年代が違いますが彼が故郷とした土地のために働いた可能性は有ったと思えます。
 しかも内藤家の出は千葉県の多古から出ており、徳川家との関係が判りません。
 しかもあの地所には内藤家の下屋敷があり、本屋敷が別にあったのです。
 興味が深まり色々と調べ、次第に全容が判ってきました。

  二代将軍秀忠に隠し子がいたのです。将軍に隠し子?これも驚きでした。将軍には跡継ぎが必要です。病死する子が多かった時代、子を多く産み育てることが将軍だけでなく全ての大名に必要で、後継者がいないで城主が死ぬと廃藩にされてしまいました。家康は幕府の安泰のために用心深く御三家を準備して死にました。

 こんな状態のなかで、将軍が第二,第三の夫人を持つのは当然と思いますが、それがこの場合にそれが出来ない事情がありました。



          生母お静の方


 秀忠にはお静という思いを寄せる女性が大奥にいて、二人の間に幸松という子ができていました。ところが奥方は淀君の妹のお江与でした。
。彼女は信長の血を引く傑女ですから、そんなことが知らされたら黙っては居ません。彼女は後の将軍になる三代家光のほかに二人の男子と五人の姫に恵まれていましたから、自分の子の外に次の将軍の競争相手が現れたのでは、それを排除するために何をやりだすか判らない不安がありました。 幸松の命を救うためにお静の実家に移し、更に有るときは極秘で裏長屋に住んだ事なぞの苦労があったと伝えられています。勿論全て極秘の内に事が進んで行きました。

 ここに見性院という女性が登場します。この人は武田信玄の娘でしたから多分度胸が据わっていたのでしょう。知り合いの高遠の保科家に話を持ち込み養子にして貰ったのです。保科家は既に決めていた後継者を廃嫡して幸松を後継者にしました。幸松21歳の時に養父保科正光が亡くなり、幸松が高遠藩の藩主となり保科正之となりました。

 家光が3代将軍になりましたが、正之が異母弟とは知りません。幕府閣僚は正之のことを知っていたのでしたが、家光の弟の忠長との将軍相続の争いで苦労したので敢て公表を避けていました。

 あるとき家光が目黒に鷹狩に出かけた折に休んだ寺の住職から保科正之が弟と聞き大層驚きました。しかしどんな人物か判らないし、将軍の弟として権威を嵩にして横暴でも困るとして警戒しました。当然のことでしょう。
 然し正之は学問、武道に励み、苦労を重ねて庶民の苦労をつぶさに学んでおり善政を敷き、立派な人格者であることが知られるようになりましたが家光に対しては臣従の態度を守り、庶民に対しても威風を飾る事がありませんでした。
 正之の出世が始まりました。26歳→山形藩主→会津藩主と領地を変え23万石の大名となり、幕閣で重きをなし、4代将軍家綱の補佐役となりました。
 幕政に集中し、会津には20年間帰らず、高遠以来の重鎮に藩政を任せ、江戸からも幾つもの的確な指示を出したと伝えられている。
 家光から姓を松平とせよと言われたが辞退しています。

 高遠から重臣を伴い任地に赴任したが、多くの家臣を残し、自分を育てた山河と人々のために高遠後任の城主にも配慮があったのではないだろうか。

 保科正之 像  三代将軍 徳川家光 異母弟
以上

次は武田勝頼の新府城、山梨桃源、高遠城跡・満開の桜になります。

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2010年4月12日 (月)

NO.265号陶友の作品、近隣の花

作  須藤雄一郎  皿 19x13.3cm 高3.5cm 土筆(つくし)が顔を見せる頃ですね。この作品は5枚揃いです。


作 同  径13cm 高3cm


作  同  径11.2cm 高5、5cm


作  同  径11.2cm 高5.5cm


作  同  径13cm 高7cm


近隣の花
海棠満開 次々に花が開きこのところ繁忙です。


シヤクナゲ満開。

アネモネ満開 デージー(又はヒナギク)          

桃の花 ムスカリ

カロライナ・ジャスミン ハーデンベルギア(別名コマチフジ 小町藤) 

桃の花

シンビジューム シンビジューム

榛名屋の生け花。何時も綺麗な花を店頭に(白色はカラー、ピンクはカーネーション)。
以上                                                                

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2010年4月11日 (日)

NO.264号 桜・新宿御苑

 4月11日、新宿御苑に行きました。好天に恵まれて大勢の人が遊んでいました。嘗てここは信州伊那高遠の城主内藤氏の土地でそのために、内藤新宿と呼ばれていました。
 
 中央線で千駄ヶ谷下車、100m余歩いて千駄ヶ谷門から入園、一人200円でした。
 巨樹を越えて桜が見えました。 (48枚の写真収録)








幼子が裸足で芝生の上を走り廻り、微笑ましく、大人の多くが芝生に寝そべり、外人家族が寿司の弁当持参で箸を使い昼飯を食べて花見をしていました。











次々に美しい桜を楽しみ歩きました。



















シャガ





好天日傘をさして。


八重桜 白妙〈シロタエ)








地面を覆う 花びら


カリンの花










































































                                                  以上

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NO.263 Love Some Body の店、蜂蜜専門店、杜の鍛冶屋と陶友の作品。

ポルトガルの品を扱うお店
教会通りに以前からある店、今回初めて訪問しました。見慣れないポルトガルの陶器が店内に飾ってあったからです。この店も個性豊かな店でした。


教会通りから店頭を撮影。綺麗なお店でした。



異国情緒タップリのこの焼き物に見とれました。ポルトガルのものだそうです。





右のパンも焼き物。


各種のタイルが沢山。


多種の布が。


楽しそうな焼き物の人形が。


蜂蜜専門店 ラべイユ
蜂蜜以外の自然食品も扱いますが、蜂蜜の有名店です。同じ教会通りから新築の店に4月初めに引越しました。
鉄筋の3階建です。今まで何度も新聞や雑誌に紹介されました。我が家もここで買っています。
 




引越し以前のお店、自然食品も扱います。


陶芸作品
作  杜の鍛冶屋  壷   同じ壷の2面を撮影大分大きいです。径18.5cm 高27cm 
絵の具は赤、黒、白を使いました。黄色の部分は黒を薄めにするとこうなります。


作  杜の鍛冶屋  抹茶茶碗 左 径11cm 高7cm  右 径11.5cm 高7.5cm

二つ共四季彩の店で私が気に入り買ったものです。

上記右の側面です。


作  允  花瓶   径11x10cm 高18.7cm   独創的なデザイン、こういうのが好きです。
  以上

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2010年4月 9日 (金)

NO.262 四季彩の店

四季彩の店 
 よくまーこれだけの変った品物を集めたものだ!!と感嘆させる魅力がこの店にはあります。下手な展覧会よりも楽しませて呉れるものがあり、時間に余裕のあるときには時々店に入りますが、飽きが来ません。陳列品を求めて遠方へも出かけるようです。
 安物は扱いませんが、高すぎると思えるものは置かないようです。


これ画鋲なんです。贅沢を味わう価値があります。1個315円ですから高いとは思いませんし、頑丈ですから便利です。


これはマグネット。磁石です。冷蔵庫の扉に書類を張りつけます。贅沢な美しい飾りです。






ホーク台だそうですが、実に贅沢。勿論箸置きにも使えます。


美しい焼き物が続きます。








お菓子と見紛うような箸置きではありませんか。


こんな美しい鉢どうやって作るんでしょう?









































                                                           以上

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2010年4月 3日 (土)

NO.261 桜全開

家から150m以内の桜
家から80m、葉と花が同時に咲く珍しい桜です。    右は家の斜め前。河津桜と思います








家から距離80mの巨木です。黄色はミモザの残り花で、ミモザ盛りのものは前に掲載済み。


家から150mの桜。荻窪税務署です。後ろの白い建物は職員官舎です。


同 カメラを向ける方角で色が変ります。








家から130m小学校の桜





                                         以上

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