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2010年4月20日 (火)

NO.267号 バス旅行・山梨新府城、桃源郷、伊那光前寺、高遠城、諏訪高島城

バスの旅
 4月13日~14日の2日間夫婦で上記の見物をしました。今年の天候は誠に不順で困りますが、今回の旅は奇跡的に好天に恵まれて幸せでした。
中央高速談合坂で最初の休憩がありました。下3枚はパーキングでの風景です。








山肌の緑でないところは桜です。


甲府盆地、走行中のバスの中から撮影。白雪をかぶった南アルプスが霞んで見えました。



 新府城 武田勝頼が新しく建てた城。甲府の北西に位置し、領域の中心に存在。
 天正3年(1575)長篠・設楽ヶ原の合戦で織田・徳川連合軍に大敗した武田勝頼は甲府の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)から天正9年12月に新府城に本拠を移した。この城は韮崎(にらさき)の甲州街道に沿った極めて巨大な城であり、要害で殊に西に7里岩の断崖絶壁があり正に完璧な城であった。建設は真田昌幸(幸村の父)が命じられ,国中の人夫を動員し昼夜兼行の急ピッチで進められた。
 これは織田徳川連合軍の侵攻を察知した行動と思える。着工は天正9年(1581)だった。

 信玄により広大に膨張した武田の支配地は甲州に加え信濃の大半、上州(群馬)西北部の一部、駿河の一部とに及ぶ巨大なものであった。戦国の緊張情勢の中で本拠の城がないことは6年前の敗戦を考えると不安な状態であったし、全軍統治の権威の為に領地の中心に巨大な城が必要であった。6年前の敗戦以前は、勝頼は連戦連勝で、武田騎馬軍団は信長や家康にも恐れられる存在だったのに、天正3年の大敗は多くの部下を失い、意見した重臣の忠告も受け入れず信望を失いつつあったのである。
 その中での強引な大工事は国の財政、人心の離反等マイナスの発生を招き、武田氏衰運の原因を招いた。



 新人物往来社刊「新府城」の写真。(インターネットで取材)この盛り上がった山塊が城である。この城は八ヶ岳裾野の南突端に位置し、写真に見える7里岩が防御に有効と見られた。写真の更に下を釜無川が流れている。城の領域は南北7~8km、東西2kmと説明されている。。
 (下の写真の左が北) 巨大な遺構である。


 観光バスは新府城と続く桃源郷の駐車場に止まったが、新府城へ登った人は私だけで、外の人は花の桃源郷へ向かった。
 それは駐車時間が少なく、両方見られないからであったし、参加者は皆老人であったからだと思う。然し歴史好きの私は以前からこの城に大きな興味があり、無理だが急いで登り、下って桃源も加えて撮影した。城の登り口から一直線の階段があったが(近年の設置と思う)、急坂で随分高い。垂直の高さは100m近いと思われた。81歳の私には負担であったが、見たい一心で敢行した。頂の広い本丸跡は桜が多く満開だった。短い時間だったが暫し昔を偲ぶことが出来た。

  この城を武田勝頼が放棄したのは新府城へ転居後僅か3ヶ月後の天正10年(1581)3月6日であった。次々の戦況が思わしいものでなく何れこの城に敵が来る事が想定され、未完成の城では戦えないとの判断であった。その為か城跡には石垣が無い。

 一方で伊那高遠城は信玄が奪取した城で、豊かな伊那地方を統括する大事な城であった。この城を信長が長男信忠に5万の軍勢を与えて(徳川勢は駿河口から甲州へ攻め込んだ)信玄なき後の武田家を一気呵成に攻め亡ぼそうとしたのである。織田軍5萬に対して高遠城を守る武田勢は3千人のみ。
 織田信忠は降伏を薦める使者を派遣したが、ここを守っていた仁科五郎盛信(信玄五男で信州北安曇郡の領主の仁科家に養子)はこれを拒否した。
 盛信の勇敢なる戦いぶりが語り草になるほど歴史に残されたが,凄惨なる戦闘の後に遂に城勢全員が玉砕した。この落城の情報が勝頼に早く届いていたかも知れないし、織田勢を更に振るい立たせるものであった。
 その外にも勝頼を落胆させたのは、天正10年2月、親戚筋の木曾義昌(信玄の娘を娶る)の離反だった。勝頼は木曾を討たんとして諏訪まで行軍したが、そこが既に織田勢のものだった。高遠落城と一族の離反が味方の離反を促進させた。木曾の離反は新府城の木材提供の勝頼の命令が過酷だったことが離反の発端で、それが多くの武将の離反を誘発したらしい。木曾から新府までの木材の輸送は想像を越える難事だった。
 
 天正10年3月6日早朝、勝頼は新府城に火をつけ炎上させ、城を離れた。各所からの人質が解放されず、火の中で死んだ。泣き悲しむ声が天にも届くほどで言葉に尽くせない哀れさだったと信長公記にある。
 この戦いに秀吉は参加していない。彼は高松城の水攻めの最中だった。
 
 新府城本丸跡、地表を覆った花びら
 

 同


 新府城を離れたとき、勝頼に従ったものは総勢で200名、内騎馬武者は20名に過ぎなかった。
 嘗ては萬単位の兵を率いた勝頼の凋落であった。既に武田の崩落を悟った兵たちが一斉に逃亡離反に動いた後であった。勝頼主従は小山田信繁に言われる侭に、その岩櫃城を目指すが信繁の謀反で道を変え自害し、北条氏からの19歳の妻も後を追い、そこまでついて来た40余命の男女も自害した。新羅三郎以来の28代続いた名門甲斐武田家の終焉だった。その場所は田野と言われる山中で、家康が建てた立派な寺と勝頼夫妻及び従者の墓がある。
 
 余談  先年の事だが、埼玉県の小川町の小川カントリークラブへ行ったときに、丘陵のそのコースに池が沢山あり、その池はこの地を領した信玄の弟が灌漑用水として建設した溜め池だと知り驚いた。彼は家康に仕えて大阪の陣にも出たらしい。その墓はゴルフ場の裏手の寺にあったから参拝した。武田家が存続していたのだ。その溜め池のお陰でこの辺は旱魃が無かったそうである。善政を敷いたと思ったが、大碌の武士ではなかったようである。家康は信玄を尊敬していたから信玄の関係者に好感を持ったのだろう。

 同


 同


 同一部拡大


 武田勝頼の死後3ヶ月後、天正10年6月2日、本能寺の変が起こり信長が死んだ。この天正10年は引き続き歴史を覆す大きな事件が相次いだ。秀吉と光秀の山崎の合戦が息つく間もなく起こっている。この間に新府城に大きな影響が及ぶ戦争が起こっていた。

 武田領の支配者が安定決まらないうちに信長が死んだから、家康がその虚を突き占領に乗り出したのである。彼はあっという間に甲州と信州を自分のものにしたのだ。自国の駿河,遠江(とうとおみ・俗に遠州)に加えると旧武田の領域に匹敵するだろう。彼は天下の目が山崎の戦いに向いていたとき、幸運にも大々名になってしまった。しかし只で手に入れたのではなかった。彼は新府城の修築を始めた。そこへ関東の北条氏が攻め込んで来たのだ。
 北条も無手で武田の地を分捕ろうとして家康の数倍の軍を向けて来た。幾多の戦いで家康は既に戦さの戦い方を熟知しており、難なく北条を追い払ってしまった。北条に戦略がなかったのだろう。鈍重にも思える家康にこんな機敏さがあったのだ。信長は武田を滅ぼしたときに甲州は家康に進ぜると言ったと私は思う。それまでの家康の協力を思えば有りそうなことだと思うし、信長には中国地方や四国、九州という大きな目標が有ったからだ。

 高い階段を下ると甲州街道、これは新府城の堀跡。


 城に接した桃源郷


 同一部拡大左方は新府城の堀跡。


 新府城から中央高速に乗り → 信州諏訪盆地 → 伊那谷を走り南下する。高速道に沿う桜が美しい。 → 光前寺を目指す。この寺は長野県下で善光寺に次ぐ大きな寺で、開創1、150年の古寺である。右の山々は中央アルプス。


光前寺


 杉巨木の並木、望遠レンズで迫力を出しました。人と較べると杉の大きさが判ります。


三重の塔                              参道

続 参道


線香棚引く本堂


ここは桜の名所でもあった。
















                                                          
                                                              以上
                               この後高遠城と高島城に続きます。

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