2009年11月 6日 (金)

NO.219号 北軽井沢の唐松紅葉。

 09.10.29~30日北軽井沢の太平洋クラブゴルフ場で。
 このゴルフ場は海抜1,200mの高原にあり、36ホールの広大なもの。元は唐松林をゴルフ場に変えたものらしい。
 従って木は全て唐松であり、左右が全て唐松のコースである。高所のために本軽井沢よりも秋の訪れが早い。私の訪問が数日遅かった感があるが、好天の中、壮大さと澄んだ空気の中でのプレイは素晴らしいものであった。
 ホテルが付属し、別棟の食堂が完備している。
 唐松は真っ直ぐに成長し,剛性に富んでいるから電柱材として大きな需要があったが、電柱ががコンクリートに変わり、建築材には適さないから、無用になってしまった。長野県では高所に向く唐松を植えた山林が非常に多く、利用についての研究が行われているが、その消息は判らない。
 このゴルフ場に隣接して広大な浅間牧場があり、牧場を越えて浅間山の全貌や、遠く草津温泉、白根山を遠望できる。但しここのゴルフ場はは4月半ばから11月半ば頃までの営業。コースの手入れは素晴らしい。私はここで2日間プレイと撮影を楽しんだ。。
 以下はその写真。

浅間牧場を越えて浅間山の噴煙遠望。

 
浅間山鬼押し出し遠望。ごつごつの傾斜が天明の大噴火の最後の溶岩の塊。山の北斜面。


 浅間山の西裾にある小浅間と云われる山。天明の大噴火のときにここの土地が盛り上がって出来た。
 私はこの山に登って見たが頂まで一時間掛かった。何れはこの小山が噴火するのか?頂から北軽高原が北に一望。南は長野県佐久郡。
雲は噴煙。


浅間牧場





牧場を越えて白根山遠望。右裾が草津温泉だが霞んでいる。


ゴルフ場から牧場遠望。牛が見えた。


ゴルフ場玄関前からホテルを望む。


玄関前から駐車場。後から車が増えた。


食堂、ホテルの食堂は別棟。食事は美味しい。


いざスタートへ





唐松が何十万本あるか判らない。同じ唐松も光の加減で随分違います。


   向こうの高い山は浅間隠れ山と云い、大学の登山部の人たちが練習登山をするそうだ。左の緑の所はスキー場。背景は皆唐松。
 浅間隠れ山の麓手前に二度上峠(にどあげとうげ)があり峠を越えると倉渕村(現在は高崎市)権田になる。そこは幕末、小栗上野之介の領地。

 手入れの良い芝生に唐松の陰が美しい。こう書いていてもコースの番号が判らなくなりました。歳のせいかしら。


小栗上野介父子の墓 


 小栗上野介 資料はPCより以下に示す。
 幕末開明の人、遣米使節の後、勘定奉行などの要職につき、横須賀製鉄所の設立を初め、日本の近代文化のために多くの業績を残しました。明治になり権田に隠棲しましたが、「反逆の企て」があるとされ官軍により非業な最後を遂げました。
 東善寺境内に小栗上野介父子の墓。彼のことは多分井伏鱒二が書いた小説があったと思います。権田は馬で有名な話が鎌倉時代に有ったのですが省略。



上と同じコース。向こうは浅間山。


コースから時々浅間山が。




















向かいの山を。





美しい斜面の芝生と唐松。


影と明るい芝生。


ゴルフ場入り口のもみじ。



同拡大


                                                以上

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2009年11月 2日 (月)

NO.217号 浅間山荘事件、南軽井沢、北軽井沢、  

浅間山荘事件顕彰碑 、南軽井沢 薄(すすき)のよく繁る原の角地にそれはあった。軽井沢発地(ほっち)である。

 昭和47年(1972)2月19日。連合赤軍5名が河合楽器軽井沢保養所に侵入占拠し、31歳の女性管理人を人質にした。写真は保養所、手前は攻撃隊の警察官たち。
 初めは榛名山で赤軍派が革命の為に軍事訓練をしているのを察知した警察の包囲網から逃れての事であった。
 医者の田中氏が説得のため山荘に向かい射殺された。赤軍派はライフル銃や散弾銃で武装化されていたから、簡単に攻められない状態で、催涙弾や放水も効果が無かった。
 篭城10日に及び、ビル解体工事に用いるモンケンの鉄球が保養所の壁を破壊し、警官隊が一斉になだれ込み激しい銃撃戦を展開、赤軍派5人を逮捕した。女性管理人は無事だった。然し警官3人が被弾、2人が即死、一人が失明の重傷だった。

 事件後赤軍派の内情が判明したが、同志12人がブルジョワ派として処刑されており、世間に衝撃を与えた。
新聞もテレビもその報道が埋めつくした。
 当時の日本は順調な経済発展を続けており、何が不満で青年たちがそんな行為に出たか判らない。気違い行為としか思えない。今の方が就職出来ず若者は苦しいはずだ。

 この事件は共産主義を賛美のあまりの、当時の一部若者の暴走だったと思う。日航機ハイジャック事件や類似な事件が相次いだ。しかしロシヤが政治を自由主義に変えて以来、目が覚めたか沈静せざるを得なかった。今中国が世界の注目を集める発展を見せているが、これも中国共産党が方針を転換した成果である。
 20世紀は歴史的に見て、社会主義のテストと失敗の時代だったような気がする。大学にマルクス主義の学者がいなくなった。それは壮大な政治的実験の時代だったと思うが、違うだろうか。
 
 殉職死亡の二人の警官は42歳と47歳、残されたご家族のその後はどうなったか誠に御気の毒である。
 37年前の耳目を集めた事件も、遙かに遠い彼方のことになった。



 以下10月28日 何時も花が供えられて。これは殉職警官を賛え顕彰した慰霊碑


ススキが顕彰碑隣の野原で


碑の近くの家での柏の紅葉


鳥獣慰霊碑 長野県知事 揮毫


ピラミッドアジサイがこんなに赤く、塩沢湖の近くで。


ススキ群生、上の花の側で。


軽井沢最大のスーパー鶴屋駐車場で。名も知らぬ木に赤い実がいっぱいに。


上記の木の実拡大


10月29日朝 北軽井沢 朝霧の松林。





   以上   以下次号は唐松の紅葉(黄色の葉を紅葉というのは変ですが、スケールの大きなものです)

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2009年11月 1日 (日)

NO.216号 浅間の噴煙

浅間山の噴煙

 09年10月29日16時44分59秒、北軽井沢で車を運転していた私は窓外を見て浅間山の黒い噴煙に驚いて車を止めて撮影した。
 絶えず噴煙を吐き出している浅間山だが、普段の白煙が、黒煙であったのに驚いたのだ。白煙は火口に溜まる雨水が火山の熱で蒸気となり白い雲をとなるのだが、黒煙は火口の岩石を吹き上げたのだから驚いた。
 刻々と変わって行く噴煙の記録。
 ①


② 16時46分25秒 夕焼け雲は天然のもの。黒煙は次第に広く高く拡散を続けた。


③ 16時46分34秒、噴煙やや穏やかと思ったが。


④ 16時46分53秒、高空の風は速いらしく先の高い噴煙はもう見えない。


⑤ 16時57分23秒 風向きが変わる。


⑥ 16時59分12秒 夕闇次第に迫る。


⑦ 17時3分41秒 風向き絶えず変わる。


⑧17時6分58秒。黒雲天を覆うの感。

⑨ 29日17時10分04秒。 噴火更に活発化。


⑩ 29日17時13分01秒、急に噴煙が白に変わった。天が明るくなった。


 約30分の見物だった。
 何故こんなことになるのだろう?これは私の素人推理。火口の内壁は重なる噴火で崩れ、遂には火口を塞ぐのではないか。次第に噴火のエネルギーが溜まり一気に噴火して黒い噴煙が上がル。崩れていた岩石は噴火の掃除で火口が維持されれば噴煙は元に戻るのではなかろうか。噴煙が薄くなるのは雨水の溜まりが少ない時ではないか?掃除が旨く行かないと大爆発になるだろう。それは溶岩が火口近くまでセリ上がり火口を塞いでしまう場合でもあろう。鬼押し出しは噴火の最後にどろりと溶岩が流れて出来たとされ、大噴火と同時の所産ではないそうである。
  以下次号。次号は浅間山荘事件の慰霊碑、ススキや紅葉となります。既に資料が揃っています。

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2009年10月 1日 (木)

NO.209号 軽井沢銀座で、自宅と近隣の花

 208号の見晴らし台で掲載を落とした写真が一枚有ったので、それを掲載。
 熊野皇大神社参集殿の前のこの石碑が目に留まった。
 宗良親王御歌とある。ムネナガシンノウと読む。実は戦時10歳代であった私には大層懐かしい御名だった。
 恐らくこの石碑も戦時に建てられたものと思う。 先ずこの石碑の歌を読んで見よう。

 「きみがため よのため なにかおしからむ すててかいある いのちなりせば」

 この親王は御醍醐天皇の八子。御醍醐天皇は建武の中興を足利尊氏により覆され、吉野山に逃れ南朝を興した。
 尊氏は京都に光厳天皇を擁して北朝を建てる。
 つまり天皇の絶対支配への回復が失敗となり、武士の絶対支配に大きく時代が転換したのだ。
 このときに御醍醐天皇の第一子護良親王が鎌倉で殺され、第八子の宗良親王は信州伊那で南朝の復権を失敗に終わる。
 戦時に軍は天皇の神格化に奔走し、陛下の御為に死ねと教え、長野県でも信濃の宮宗良親王尊崇の運動が始まり、今思うと気違いじみたムードであった。この石碑もその頃の歴史的な遺物だが、あの頃を思い出して懐かしさが俄かにこみ上げて来た。
 先年の春、吉野山の御醍醐天皇の御陵を拝観したときも、天皇の無念さに思いを馳せた。彼は悲劇の天皇だった。





 軽井沢銀座で
 この賑やかな通りに何度来ただろう。聞くところでは東京銀座の名だたる料亭や衣料店の殆どが店を出しているそうである。
 盛夏には100万人を集める由だが、富豪が揃う別荘地はまことに静寂で、その差に驚く。
 私は本通りよりも寧ろ横道や裏通りの方が何故か心が休まる感じがする。今回は見晴らし台を見て東京へ帰る途中。多くの時間を費やす余裕がなかった。
 
 横道で。 何となく垢抜けた店が続く


 同



 レストラン 芦屋亭 
 
軽井沢銀座からテニスコートに行く右側。
 午後1時近く、峠で力餅を少し食べて来たので軽くと思いこの小じんまりしたレストランに妻と入った。これが正解だった。
食べたものを撮影しないのが失敗。
 軽いものは?と聞くとブブ漬で如何でしょうとの返事。京都で食べられる事を聞いてはいたが食べた事がないから注文した。
 ご飯の上に乗せる細かく刻んだ漬物や佃煮が別皿に盛られ、土瓶のお茶をかけて食べたが期待以上に旨かった。
 聞くと若い女性あるじは京都出という事だった。壁の飾りも面白い。売り物の由。
 


 可憐な生け花が卓上に。こんなのはじめて。私陶芸を少ししているから早速真似しよう。


 同


 同


 自宅の花
 前の作品が気に入ったから妻はこの石(焼き物?)をこの店で買い、帰宅後自宅の庭の秋海棠を玄関に飾った。


 マユミの花
 

 これは20日程前、上の花のつぼみ。


 黄色の曼珠沙華 9月10日
 極楽のあるを祈りて彼岸花  


 同9月11日


 同9月11日


 同9月12日


 9月13日の朝、前夜の雨で露玉が光っていました。

 以上の曼珠沙華は枯れてもう有りません。

 戴いた朝顔が毎朝花を咲かせ楽しませて呉れました。夕方はこの花が赤くなりました。


 夏水仙。何度も新しい花を咲かせて呉れました。


 シュウメイギク


近隣の曼珠沙華



                                        以上

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2009年9月27日 (日)

NO.208号 中仙道碓氷峠、見晴らし台及びその周辺、歴史を顧みて。

 軽井沢銀座の観光会館前の碓氷峠行きのバス停でバスに乗りました、真っ赤な車体の小型バス。 中仙道の旧道ではなく、狭い自動車道を走り、峰で旧道と出会いました。旧道が今の遊歩道と思います。 遊歩道を健脚の人で歩いて1時間。年寄りで2時間と聞いたのでこのバスに乗りました。  旧道は狭く、大名行列が通れる程で反対から行列が来たらどうしただろうと思いました。多分ところどころ に幅広の部分があるかと思いました。高速道も無い遙か昔(50年前)に車で碓氷峠を群馬の方から登った 事がありました。  上りきった平地が軽井沢で、群馬と長野との落差の大きさを実感しました。  旧道の峰は今の自動車道(高速ではない)よりも随分高いところまで登ったようです。  バスは往復で800円。道中運転手が観光案内を勤めてくれました。これはバス券です。



 峠には6軒の茶店が力餅を売っていた。小さな餅は美味しかった。もう少し大きければと思った。


 峠の茶屋


 古い上信国境道標


 峠のバス亭


 見晴らし台で


 大木が繁茂して下に書かれたような信州の山は見えませんでした。


 県境を示す。目が悪くなっており、真っ直ぐの撮影が出来ません。ご了解ください。


 ここにも県境が。


 万葉集に載った碓氷峠の歌碑 2首。下に解説



 詩聖 タゴール 像


 タゴールについての解説。字が小さいので説明看板を2分して掲載しました。








 峠の熊野皇大神社 以下は神社に関わること。






 石の風車 下に解説






 神殿





 日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が関東、東北を天皇傘下にに収めるためにこの地に来た。途中相模(神奈川県)から房総に舟で
渡ろうとしたとき、暴風に遭遇した。妻の弟橘姫(オトタチバナヒメ)が海神の怒りを収めんとして海中に身を投じた。
 尊はこの地で遙か太平洋を望み おお我が妻よ!! と呼びかけたと伝えられている。関東各地に妻恋坂があり、現にこの近くに
吾妻郡、妻恋村がある。


 政宗の句


 信越本線が開通したのが明治26年(1893)4月1日であり、軽井沢ー松井田間の工事が最後の難工事であった。それだけ碓氷峠を越えて信州への道は想像以上に旅人に苦労させたことであろう。原始時代より1893年までは碓氷峠は歩いて越えていた。皇女和宮も前田100万石の大名行列も例外ではない。碓氷峠を歩いた人数は想像もつかない数字であったことだろう。
 私は県境に立ち暫し遠い過去に思い巡らせて佇んだ。
 島崎藤村が木曾から小諸まで歩いて汽車で東京まで乗った記事を読んだ記憶がある。何故愛知県が近いのだから東海道線に乗らなかったか判らないが、小諸からなら東京まで一日の行程、愛知なら2~3日の行程だったかも知れない。
                                                 以下次号

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2009年9月26日 (土)

NO.207 初秋の軽井沢

 桜が紅葉に


 国道から横道に入ると


 ピラミッドアジサイが紅に染まって


 同


 生垣も鮮やかに


 同


 はて何の花かしら


 コスモスの群生が道端に


 百日草と黄色のコスモ


 花火が開いたように


 同


 野原にはススキが


 タンポポ 直ぐにも種を抱えて風に乗りそう。


 同 この繊細な自然の美しさ。



 蔦漆(ツタウルシ)が松を染め


 09.9.24日朝6時24分 北軽井澤 別荘地で


 ナナカマド


 同


 ゴルフ場で


 昨年北軽井沢の同じ池で水面を撮影している。


 同


 軽井沢銀座から碓氷峠の見晴らし台まで往復バスが運行されている。真っ赤な玩具のようなバスで運転手が観光説明をして呉れる。
これは車中からの撮影、上り坂である。中仙道の上州と信州の堺が碓氷峠の頂点で、そこには神社と茶店が6軒ある。


                                         以下次号

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2009年9月 6日 (日)

NO.205号 天草への旅 第五章天草四郎メモリアルホール 補筆

 旅の記録で、 ホールの中の展示に触れていませんでした。ホール内は撮影禁止のために絵葉書より転写しました。






  南蛮船の一部 大型模型

  どれだけ沢山の文物、多数の思い、幸福と不幸を運んだか考えて、隠れキリシタンの墓やこの舟の前で、私は暫く佇みました。
  スエズ運河が出来る遙か以前に、彼らは喜望峰を回り2年の歳月をかけて日本まで来ました。どれだけ困難が有ったか計り知れない苦労の連続と思います。勿論難破船も沢山有った筈です。
 然しそれを乗り越えても来る未知の価値が東洋に有ったのでしょう。
 人間の持つ好奇心の物凄さを感じない訳には参りません。
 その運んできた宗教が文化を伴うと同時に、不幸も伴ったのが困りものでした。宗教は人を幸せにするためが本来の発想だった筈でした。
 今も中東で不可解な宗派の戦争が続いています。人間は叡智と同時に無知に命を捧げる存在でもあるのか?と思いますが、悪いのは宗教ではではなく人間だと思います。




 メモリアルホール 大航海時代の始まり。 ポルトガル・リスボン港大壁画。



 天草四郎 像



 決戦原城攻防図




 以上で天草への旅が終了します。
 私の文章について質問がありました。「天下これを信じて多しとせず、一人これを信じて少なしとせず」 の意味を教えて欲しいというものでした。
 語源は中国明時代の大學者王陽明の残した言葉。陽明学という学問が今に伝わっています。

 云わんとするところは一人であっても自分の云うことを真に理解してくれる人がいてくれたら、それは尊いことである。天下の人が信じてくれても真に理解できてのこととは限らなく、一時の人気だけのことかも知れないから、多数の意見と思わないことだ、の意。
 
戦時中英米に必ず勝つと政府は大々的に宣伝し、危ないと云う人を拘束した。民衆は単純に勝つと思い込んでいたが、実際には疑問を感じていた人も多数居たのだ。戦争反対を勇気を出して叫んだ人も居り、彼らは一切の行動を封じられていた。もしももっと多くの人が反対を叫んでいたら戦争にならなかったかも知れない。要は何を云われても雷同せず正しい道を歩むこと。
 大久保利通や、吉田松陰は当時世間の賞賛を得た人ではなかった。 民主党大勝に当たっての所感。人気取りに流れないように。
 

 偉大な足跡。
 8月30日 近くの公立中学で行われた選挙に出掛けた。早朝であったがもうこんなに足跡が見られ驚いた。少し雨がパラツキ足跡が残された。体制を変えた歴史の記録と思った。



                             以上 杜の鍛冶屋 敬白

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2009年9月 1日 (火)

NO.203号 天草への旅 第四章  口之津はキリスト教の布教根拠地だった

 ここまで書いて来て書き落としに気づいた。



 
口之津の大きな歴史を書き落とした。それは口之津に嘗て南蛮船が渡来していたのだ。
 16世紀後半は世界が非常に活気を帯びた時代であった。国内でも力のある豪族の台頭が著しく戦国時代で、天下統一が成し遂げられている。南蛮船が漂流して日本の南西部に屡何回も着岸していた。
 口之津に南蛮船が何回来たか判らないが、宣教師の渡来と布教、更に学校の建設までが口之津で行われた。学校は初等と高等の2校だった。
 
 布教が効果を挙げ、幾つもの大名がキリシタンとなり、同時に家来、農民に浸透して行った。大名が帰依したのは海外の珍しい文化吸収というオマケに大きな魅力があったからだろう。文化の普及は宗教の普及に付随した。
 島原・天草の乱後、幕府は徹底的に口之津の学校を破壊し、今は何処にあったか不明になった。

 布教全盛の頃イエズス会の巡察使が3人のキリシタン大名に提議して、少年を4人欧州へ派遣することになった。感受性豊かな12~13歳の少年4人が選ばれた。多分その学校の優等生と思うが、詳らかではない。有名な天正遣欧使節である。行きも帰りも長崎で、舟もポルトガル船。旅は1982年~1590年に及んだ。
 帰国した時は禁教令の悲劇が待っていた。


 崎津天主堂再建者 ハルプ神父 フランス人 1945年(終戦時)80才で永眠 右はその墓
 

 旅では面白いマンホールの撮影が欠かせない。崎津は漁港らしいマンホールだった




  天草下島の尋ねた地域の地図。前の記事で隠れキリシタンの多いところと紹介した。
 天草ロザリオ館

 崎津天主堂から我々は天草ロザリオ館に移った。中での撮影が許されないので戴いた案内書から転写しました。
 500点ものキリシタン資料を集めた資料館









 隠れキリシタンの家の中にこのような隠し部屋が作られていて礼拝していました。人物は人形。


 係りの人が説明して呉れました。坊さんがお経を上げて葬式を済ませて帰ると、仏式で使ったお経やその他のものを直ぐこの壷に放り込み蓋をして、キリスト教式葬儀でやり直したそうです。私はこの壷に大層興味を持ちました。大きなものではありませんでした


 ロザリオ館の花

ルドベキア(キク科 北アメリカ原産。 一口にルドベキアと言ってもいろんな種類があるようです。)


ポーチュラカ





 ここからフーフー云いがら高く登りました。岡の上に大江天主堂が聳えていました。


 大江天主堂 



 内部撮影禁止だから、絵葉書より転写。





 ともに行きし 友みなあらず我一人 
      老いて又踏む 天草の島  吉井 勇 100号歌碑




 白秋と ともに泊まりし天草の 
   大江の宿はバテレンの宿  吉井 勇 100号歌碑





  第四章をおわります。次の第五章で完結となります。  
  選挙が終わった。政局を担う人は大変だ。百家争鳴の中どう舵取りをして行くか?
  好きな言葉にこんなのがある。 天下これを信じて多しとせず 一人これを信じて少なしとせず。信じる道を行くしかない。
                                            09年9月1日 杜の鍛冶屋 敬白

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2009年8月28日 (金)

NO.202号 天草への旅 第三章

 天草下島

  いよいよ目的の天草に上陸。沢山の島があり、地図に載らない岩礁のようなのも散見される。
  大抵の島は橋で繋がるか、又はいくつものカーフェリーで有機的に繋がっている。
 
  最初に見たのがイルカウオッチングだった。イルカの群れが泳ぐのを漁船から見るのだ。一隻に数人しか乗れないから二隻に分乗した。
  バスガイドが行って見なくてはイルカが居るか居ないか、全くわからない、居れば幸運だと云っていた。

  20分くらい海上を走っただろうか、同じような客を乗せた小舟が数隻同じところに寄って来た。
  あっ居た!居た!皆が叫んだ。船の直ぐそばにイルカの群れが浮き上がり沈み込み、潮を吹きながら親子兄弟が寄り添うように、舟に並んで走るではないか。
  皆が写真を撮り出したが、これがとても難しかった。何処に浮き上がるか判らんし、イルカにカメラを向けると沈む方が早いのだ、やっと撮影したのが次の写真。





 舟はエンジンをフルにして基地の港へ帰り出した。静かな海面を舟が激しく踊らせ面白い造形を作り出した。波の表面が微妙な形を瞬時に作り出して行くのに驚いた。カメラでないと見られないし、大きな高い船からは到底撮影できない風景だろう。


 着いた小さな鄙びた漁港は静かな可愛いほどの港だった。

 
 近くのホテルで翌朝、目覚めたら朝日が昇り始めていた。8月18日午前5時59分であった。
 5階のベランダから。これ以上前に出られないので一本の木が邪魔だが仕方がない。潮の流れの模様が美しい。



  18日は天草下島、天草上島、大矢野島など、キリシタン遺跡を尋ねた日である。
 隠れキリシタンを地図で見た感じでは天草下島の南西に集中していたのではないかと想像した。
 そのあたりに明治になってから建てられた天主堂が2棟あったし、一揆の騒動からはかけ離れた場所であったからと、推定したからである。
 あの一揆に全てのキリシタンが参加した訳ではない。一揆4萬人近い人数では人が不在となってしまった地域も結構あったのではなかろうか?
 一揆不参加の地域を一揆収束後幕府が捜査した結果では、この地域に5千人の人口があり、その半分がキリシタンであった。その2千5百人を処刑したら、只でさえ人口が戦いで激減した上に更に減らしたら、産業が衰微し困るとして、禁教令の強化と仏教への帰依強化政策のみに切り替えたらしい。
 あの戦いは領主の圧政で、食べるものを全て租税として無理やり取り上げられ、生きてゆけない状態に追い込められたのが主因で、従わない領民を極刑に処したのだ。折から凶作と重なり、禁教令も厳しく、それが爆発の根拠になった。一揆旗揚げは下図談合島(今の名は湯島)で行われた。
 本来2万石の場所に4~5万石に相当する課税をしたのだから、殺されても戦う決意が生まれても当然である。
 隠れキリシタンは天草諸島に広く居ただろうが、天主堂の大きな建物を建てるには纏まった人口が、そこになければ成り立たないと思う。その地域に隠れキリシタンが密かに300年間維新までを多く生きてきたのだ。

 下の地図は一揆画策が行われた島とされる「談合島」。高山右近もキリシタン大名で消された。フィリッピンに移住したともされる。浪人がこの地域で大層大勢輩出、彼らが各地で農民指導者となり、一揆の指導者となったのが私見。農民だけで4万近い人数の組織化は出来まい。


 上の地図で大矢野島が天草四郎生誕の地と書いているが、正確には判らない。然し後年ある家の石垣の中で発見された四郎の墓はこの地の四郎メモリアルホール(追悼館)の場所にある。多くの意見でそうなったものであろう。
 
 話が大分横にそれた。バスは天草下島の朝日を撮影したホテルから9時半に走りだした。そこは島の地図の北辺から南下する形で走り、暫く田園風景を見たが、直ぐに山間部の道になった。曲がりが多い狭い渓谷に沿い、相当長い時間が掛かり海辺に出た。その間村落らしいものは皆無、たまに家があっても傾斜地に僅か数軒の家があるだけ。あそこに住む人の生計は何で賄って居るかが不思議だった。
 山が有れば山林業でも出来るか?と思ったが、見た山は急角度に屹立した山ばかり、とても歩いては登れない山ばかりだから、植林の気配は全く無いではないか?
 今でこそ車の通る道が有るが、昔は細い山道で行った先の海岸沿いの地域とは隔絶しており、一揆とは関係なき地域だったことが判るような気がした。
だから一揆に不参加だったのだ。

 海岸沿いの道は断崖沿いのトンネルだらけ、それだけ屹立の山が海に迫っている。だから平地は極めて少ない。この島全体の何%が農耕地なのか?それはバスで動いて極めて少ないと思わざるを得なった。多くの租税が取れると思うのが可笑しい。領主は江戸幕府の江戸城の拡張工事に奉仕して栄達を望んでいたのだ。思わず馬鹿!!と云いたくなる。結局その地の領主は廃藩の処置を受けた。

 関ヶ原合戦が1600年、家康の死が1616年、その16年間に家康は一国一城の制を定め、外様大名をこつこつと減らして行ったのだ。これを以降の幕府も継承し、その為浪人の累増となり、社会問題にまで発展し、後に幕府も政策転換を余儀なくされた。
 江戸城が今の巨大さに達したのは、漸く3代家光の時、1636年であり、奇しくも島原、天草の乱の始まりが1637年であったことを思うと、丁度浪人が激増した時期と一致する。

 海岸に到達したバスは下記の場所に止まった。

 崎津天主堂とその周辺
 絵葉書より転写





教会は出入り自由で無人。





教会の庭の池 緋鯉が綺麗


 同


 同


 同


 同


 同



 18日一日で旅行が全て終了したが、、旅の記録は未だ終わらない。 つい歴史観を述べたり、花を撮影と何とも忙しい話だ。読まれる方はどうか適当にお読みになってください。

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2009年8月25日 (火)

NO.201号 天草への旅 第二章

 老人相手の旅行は朝のスタートが遅いと有りがたい。羽田の集合も午前11時だったし、2回の宿のスタートは9時半だった。<BR>
老人は朝の目覚めが早いから、早いスタートで良いと思われるかも知れないが、それは違う。
 つまり何もゆっくりが良いのだ。余裕のない旅はゴメンだ。出来たらホテルもベッドだと、起きるのが楽で有りがたい、畳に布団だとガッカリだ。それも私の老化のせいである。
 山鹿市を8月17日9時半にスタートしたバスは有明海の長洲港からフェリーに乗った。
 バスに乗ったまま汽船に乗ったのははじめての経験だった。向かうは島原半島(長崎県)の多比良港、1時間半の船旅、これから向かう雲仙普賢岳が海の向こうに高く霞み、白煙を上げているのが望見された。
 快晴で波静か、甲板に出て快い海風を味わう。降りる時もバスに乗ってである。便利な世の中に感心したのだから、如何に世間知らずで生きて来たかである。
  
 島原市に入ったのは昼飯時、餅の入った器の食べ物は具雑煮と云い、天草の乱でキリシタン軍が原城篭城中食したものだそうだ。<BR>
 戦いは10月から2月までだったから、多分兵糧の中に餅の準備があったのだろう。

 島原城と原城が混同され易いが、島原城から20km程南下した海沿いの断崖の上に原城があった。その廃城に一揆が篭った。<BR>
 落城の契機は攻め手の大将・老中松平信綱が、容易に落ちない原城に対して兵糧攻めの持久戦を取り、敵兵の死骸の胃の中が空で食べ物が無くなったことを知り、総攻撃で落城させ、敵兵37000人全てを惨殺したと伝えられている。
  幕府軍は12万人で、死者8千人の損害であった。
 しかしこれだけを読むと原城だけの戦に聞こえる。一揆は島原半島から天草諸島全てに及ぶ巨大な地域に散発的に発生し、それらが糾合されて原城に集約されて行ったのが経緯のようである。一揆発生時には地域内の多くのところで戦いが開始され、それが団結へと衝動的に大軍に纏まって行ったのだ。


 昼食は島原城の前の食堂で。この城は維新時解体され、最近再建されたもの。キリシタン一揆軍はこの城を攻めて落とせず城下を焼き略奪をした。これが島原半島西北部にも影響し、一揆軍膨張の一つの原因となった。<BR>


 島原城  

 この城は見学せず、雲仙普賢岳へと急ぐ。

 城周辺の花 堀に蓮の花が。


 





  我々が幸運だったのは天候だけではなかった。バスの女性ガイドさんが素晴らしかったことである。良く勉強されあらゆる面で長時間飽きさせることが無く話を続けてくれたのだ。私が永年旅をして、あんな素晴らしい方は居なかった。歌も上手でプロ並みに思えた。 我々一行の中に80歳代4人、70歳代5人、60歳代7人計16人。大型バスで2人席に一人づつ座れた。実に幸運というしかない。


 噴火で溶岩が一斉に右斜面を流れ落ちた。多くの犠牲者が火砕流でやられた。物凄いスピードで流れは海近くまでに及んだ。
 斜面保護のため空から草の種を蒔いたそうだ。噴煙は続いている。
 雲仙普賢岳


  
 近寄ると荒々しい山肌がむき出しに、頂が写らなくて噴火も見えず、これは失敗。


 雲仙 普賢岳からバスは天草下島へ海を渡るために口之津へ急いだ、途中の有明海沿いに「天草の乱」の主戦場「原城」の横を通った。バスの中から見た原城跡は高台の草原。外に何も見えなかった。戦いの後幕府は痕跡なきまでにこの城を破壊したのだ。
 
 一揆の大将は16歳の天草四郎だが何故そんな若いのが首領にされたのか
 美少年で数々の奇跡を起こしたと、全ての書物に書かれている。然しそれだけで数万の農民、老幼女子までが死を賭して戦うだろうか?
 
 これが私の大きな疑問だった。

 いろいろと調べた。以下は私の私見である
 その結果は関ヶ原の合戦にたどりついた。 あの戦いでは徳川家康の東軍と毛利輝元の西軍が戦った。西軍の実質的の指揮は石田三成だが、この際考えない。西軍は西日本の軍勢が主体だった。敗戦後の西軍の大名は改易、扶持削減などの被害を受けた。当然浪人の急増を招いた。東軍に属した福島正則なども潰された。
 碌を失った侍は農民になるしかない。圧政の中で先ず動いたのは彼等であろう。幾つもの藩浪人が相談したとき、大将を誰にしたらよいかが大きな課題となった筈だ。
 大将は特定の藩の浪人では統率が出来ない。そこに浮上したのが四郎だった。数々の四郎の奇跡というのは知恵者が考えだした噂であろう。
 4万近い一揆軍勢の中には当然戦の経験者や、作戦を進める影の指導者がいたと考えられる。
 神武天皇の金の鳶の話なども皇統を確たるものにするための古事記作者の作文ではないか?天草4万人近い人を動かすには余程の人物が中に居たであろう。
 釈迦やキリストの奇跡、それらは組織が弱体の時に作られたものだ。秀吉や家康の奇跡などは存在しない。
 それを思えば神掛りの四郎の利用は誠に大事な存在であった。。

 
 激戦の原城について 右下の写真は事典に掲載の原城の遺跡である。城の位置は200号の地図でご覧下さい。



 バスは島原半島の口之津で我々を乗せてカーフェリーに乗った。対岸の鬼池まで30分の航海である。海が静かで後続の車の乗船が終わるのを待つ。
静かな海面を見て撮影したらこんな写真が撮れた。船の進行左側である。つまり東側で反対側は作品にはならずだった。



 船が静かに動き出した。すかさず又一枚撮影。



 船の航跡 海水がこんなに美しいとは! 遠くに雲仙 普賢岳が霞んでゆく。忘れられない光景。二度見ることは有るまい。島原半島よさよなら!



  第2章を終わります。次3章は天草諸島に入ります。
  西洋の諺 「 旅は人の心を広くする、広くなる心があれば。しかしロバは旅から帰ってもロバである 」   
                                                            以上

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2009年7月17日 (金)

NO.193号 梅雨明けの空。その他

 北軽へ7月13~15日まで滞在し、2日間はゴルフをしていました。
丁度梅雨明けと重なり快晴に恵まれました。そこで撮影の雲の写真その他です。

(1)ウツボグサ


(2)漣(さざなみ)
7月15日午後4時頃、北軽井沢のある池のほとりでベンチで寛ぎ(くつろぎ)快晴の浅間山を眺めて梅雨明けで
快いそよ風を楽しんでいました。ふと池の水面を見ると、漣が小さな群れのように岸に向かい動いており、美しい模
様を作り出していました。そこを撮影しました。


(3)梅雨明けの朝空
7月15日朝ゴルフ場へ車で向かうとき、空を見上げると梅雨の残り雲が濃く鮮やかな模様を作り出していました。


(4)


(5)刻々と変わる雲


(6)


(7)目を北に転じると。下は浅間牧場。雲は次第に穏やかに。


(8)夕景、太陽が西に。


(9)上の明るいところを拡大。


                                                             以上

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2009年7月16日 (木)

NO.192号 南軽井沢の花

 関越高速道を降りて、少し走りゴルフ場を左に曲がると南軽井沢になります。浅間山荘事件の記念碑周辺を散歩しながら
花の写真を撮りました。

 南軽井沢の花

(1)これは途中で休んだ高速道の甘楽PAでの撮影です。


(2)クレオメ


(3)同


(4)ここから南軽井沢の花になります


(5)クガイソウ


(6)ピンクの花はストケシア


(7)


(8)インパチェンス   


(9)


(10)


(11)キクイモ


(12)バラ 、こちらの家で大分話し込み、花の写真を沢山撮らせてもらいました。再訪したいと思います。


(13)ゴマノハグサ科アンゲロニア属  エンジェル ラベンダー      レストランの庭で。


(13)同


(14)山アジサイ


(15)ヤナギラン


(16)フウロソウ


(17)


(18)オカトラノオ


(19) NO.12の家の庭です。残念にも見事なバラが殆どお仕舞いでした。


(20)ヤナギラン 黄金虫らしい虫が一匹


(21)カラマツソウ


(22)キクイモ


(23)ユリ


(24)


(25)ユキノシタ


(26)ノコギリソウ


(27)ヘメロカリス


                                                 以上

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NO.191号 続・近隣の花

 選挙に出掛けて撮影した写真が前号に続き残っています。それを掲載します。
(1)ムクゲ


(2)同拡大、花弁が絹を思わせる美しさでしたので、拡大しました。


(3)インパチェンス


(4)ナス科トウガラシ属の園芸種
(4)

(5)シュウカイドウでしょうか?


(6)ポーチュラカ


(7)ボタンクサギ(クマツヅラ科)  珊瑚礁を見るような不思議な花。


(8)ベゴニア


(9)サフィニア


(10)ペチュニアかサフィニア


(11)ペチュニアかサフィニア


(12)ペチュニアかサフィニア


(13)サルスベリ


(14)ハツユキカズラ(キョウチクトウ科)


(15)同拡大


(16)ノーゼンカツラ


(17)


(18)ベゴニア


(19)木立ち性ベゴニア


(20)一部拡大


(21)赤の花はベゴニア


(22)ブライダルベール(ツユクサ科)


                                                     以上

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2009年7月13日 (月)

NO.190号 近隣の花

 選挙に行きました。家から300mくらいの中学校です。カメラを持参して出来たら往復の道でよい花があればと思いました
花は5~7日ですっかり変わります。一箇所で撮影して見渡すと次の花が見えてそれを撮ります。
 次々に花に誘われて結局大回りになりました。家に帰って調べたら91枚撮影していました。一時間弱くらいの間でした。
 それほど花の密度が高く、多くの家で花を育てているのがわかります。
 この91枚が全部ブログになる訳でなく、切り取りや画像の明暗の調整、掲載の大きさの設定を経て掲載画像を整理決定しますと60%くらいに減ります。この整理とブログ編集におよそ1~2日掛かります。その間に雑用もありますのでその全部の掲載ぬはどうしても5~7日が必要です
 最近の私は花に追われて生活しているようなものです。それに較べると既に作成されてブログ資料として入手して手元にあるものは悠に2,000件もあり、死ぬまでに消化出来そうもありません。
 花は時間の経過にそって遅れないようにブログを製作するために、どうしても優先掲載にならざるを得ないのです。
 今、4月の桜の写真を見せられても感動が薄いと思うからです。

近隣の花
(1)モミジバゼラニューム


(2)ポーチュラカ


(3)同拡大


(4)ジニア


(5)ベゴニア


(6)同拡大


(7)アガパンサス


(7)同じ花


(8)柵一杯に,うらやましい家。


(9)門の中まで一杯に。更にうらやましい。


(10)ブライダルベール(ツユクサ科)


(11)ハイビスカス


(12)


(13)インパチェンス(日本のホウセンカと同じ科です)


(14)インパチェンス


(15)     バラに似ているがトゲが見えない。


(16)トレニアか?


(17)トケイソウ


(18)ベゴニア


(19)ペチュニア


(20)ハイビスカス


(21)ハツユキカズラ(キョウチクトウ科)


(22)同拡大

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2009年7月12日 (日)

NO.189号 肉筆浮世絵、障害者の絵、、近隣の花

 花の写真が溜まりすぎたので、それだけのブログを掲載しましたが、一応の整理が出来ましたので、以前の編集に戻ります。
 
肉筆浮世絵

掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の故・木村東介







川越あいアイ美術館提供、障害者の絵
キュウリ  福島 康裕 画伯




釈迦如来像 青木 正臣 画伯




近隣の花
(1)キク科タンポポ属?の花、園芸種が野生化したものか? 見たこともない径2cm程の小さな花が家の前の道傍の割れ目に咲いていました。


(2)フユサンゴ(ナス科) 花が何時咲いたのか?、赤い実を見て気がつきました。この木は何故か路傍の割れ目で咲きます。植木鉢で飾っている家もあります。


(3)マンデビラ・サンデリー(キョウチクトウ科) 朝顔に似ていますが違うようです。


(4)同拡大


(5)ランタナ


(6)     何ともゴツイ見慣れない花ですが?


(7)ペチュニアもしくはサフィニア


(8)柿の実が日毎に大きくなり、楽しみです。昨年は木がまだ若く実が直ぐ落ちてしまいました。


(9)八重咲きペチュニア


(10)ラベンダー


(11)アサガオ


(12)ポーチュラカ


(13)クチナシ
                                                以上

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2009年7月10日 (金)

NO.188号 北軽の花、近隣の花、自宅で咲いた花、

北軽の花
①カンパニュラ


②コンフリー(ヒレハリソウ)ムラサキ科 薬草


③マツバギク


④同拡大


⑤ロベリア(アズーロ) キキョウ科


⑥インゲン豆


⑦ジャガイモの花


⑧ウツボグサ


⑨或る家に飾られていた花。後ろ向きの青い花はペチュニア、赤はベゴニア、ピンクは、アキレア(ノコギリソウ)


近隣の花

⑩ギボウシ


⑪桃井悠々館に飾られていた梟(ふくろう)。折り紙でこれだけのものが出来るとは、感嘆。
!!

⑫ムクゲ


⑬キョウチクトウ(白花)


⑭オシロイバナ


⑮ノウゼンカズラ


⑯サフィニア


⑰ベンケイソウ科?の植物(品種名不明です)


⑱ある日の事、地下鉄で銀座へ行った。地下道を歩いていたらこの巨大な絵に遭遇した。あまりにも素晴らしいこの絵に感動した。
 右端に「楽園」と題名が記され、作者に平山郁夫とあるではないか。東京芸大学長である。幾多の大作を発表されあまりにも有名である。
 ガラスに描かれて背後からライトで照らされていた。私は長い時間立ちすくみこの絵に見入っていたが、大勢の通行人で立ち止まる人はいなかった。
 既に見た人達なのであろう.地下公道だから、所有者は国か都と思うが心無き人により破壊されるのが心配になった。


 自宅で咲いた花
⑲キンカン開花。花はこの25%位の大きさ。


⑳マンリョウ開花。秋には真っ赤な実をつける。


21 シュウカイドウ 

                                                 以上

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2009年7月 9日 (木)

NO.187号 北軽の花

北軽の花
①野ばら


②フウロソウ


③同一部拡大


④ヤツシロソウ(キキョウ科) 何だか不思議な花。


⑤コウリンタンポポ 以下2枚は同じ花。首が長く、不思議な花。





⑦ソープ・ワート(ナデシコ科) 何だか纏まりのない不思議な花。


⑧同拡大


⑨キク科の園芸種が野生化した?


⑩ポピー  これも首が長い。


⑪カンパニュラ  これも首長。首が長いと葉がどれだか判らない。


⑫ムラサキツメクサ


⑬マツバギク


⑭シモツケソウ


⑮ダリア


⑯キンセンカ


⑰ダリア


⑱ダリア


⑲植えたばかりのキャベツ畑


⑳シモツケソウ  大きなタイヤの植木鉢とは面白い奇策。一つしか無いコンビニは大繁盛。大きなショッピングセンターは閉鎖して、中に入ったスーパーは2社とも退散。パン屋、本屋、衣料品店皆退散。
 花の後ろの黒い柱は北軽マラソンの出発地のマーク.


                                                   以上

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NO.186号 続・北軽の花

北軽の花

アカシヤ。雨の中沢山のアカシヤの花が、その重みで枝が地面まで垂れ下がっていました


②ナデシコ科の植物





ウツギ


⑤    
 この花は至るところで自生しています。結構大きくなります





⑦アルメリア  
どうもこの様な花はピントが下の葉に集中し、花がよく撮れません。


⑧ニッコウキスゲ


⑨同


マーガレット群生





ヤマアジサイ


左オダマキ、右アジサイ


⑭ヤナギラン 
難しい花。右に作者の影が。


⑮ナデシコ科?


ムラサキツユクサ


ヤマホウシ





ペチュニア


フウロソウ


                                     以上

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NO.185号 続・北軽の花

 花が続きます。これで溜まった半分にもなりません。私は花の名前や属性など何にも判らないのです。難しい名前を書き込むので、植物専門家などと誤解しないで下さい。
 この名前を教えて呉れるのは、蘭の花を時々掲載されるラベンダー氏なのです。私は綺麗な花を見ると写真を撮らずにいられないのです。
 従ってこの花のブログはラベンダー氏との共作なのです。ご覧になって花の名前が書いてない場合があると思いますが、それはラベンダー氏が調査中と思って下さい。暫く後でご覧になると名前が書き込まれている筈です。
 それでも名前のない花は、どうしても判らない花とご理解下さい。

 北軽の花

①右の黄色の花はカルセオラリア(ゴマノハグサ科) 左の黄色い花は不明


②レッド・キャンピオン(ナデシコ科)





④ガウラ


⑤キンギョソウ(ゴマノハグサ科)


⑥       北軽の交差点近くで数箇所で見ました。


⑦同拡大


⑧同


⑨           





⑪ナデシコ





⑬           断面ハート形の大木の植木鉢を初めて見ました。


⑭サフィニア これも大木の鉢。


⑮バーベナ(クマツヅラ科)


⑯バーベナ


⑰バーベナ





⑲フウロソウ


⑳ケイトウ


                                       以上

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2009年7月 8日 (水)

NO.184号 続・北軽井沢の花

 北軽井沢の花。花の写真が溜まり過ぎて、暫くは花が続きます。野辺の花を撮りたいのですが、それよりも植えた花が多く残念ですが止むを得ません。

①キク科シオン属シロヨメナ?


②ナデシコの一種 北軽交差点近くで、この花が地に這うように沢山咲いていました。


③バラ 電気屋さんの壁一杯に、この家で沢山の花を撮らせて貰いました。


④ミリオンベル 同じ店で。


⑤インパチェンス 同


⑥      辛うじて岩にへばりついて、気の毒でした。





⑧シモツケソウ


⑨シモツケソウ 溶岩を背景にして、如何にも可憐に。


⑩同拡大。


⑪手前ペチュニア ホテルの庭で。


⑫同 左パンジー 右ペチュニア


⑬同 百日草の仲間、プロフュージョン?


⑭同 プロフュージョン?


⑭同 センニチコウ


⑮同 ノコギリソウ?


⑯同 ピンクの花はニチニチソウ


⑰ケマンソウ  或る農家で。


⑱タツナミソウの園芸種?  同


⑲北軽交差点の近くに花だらけの店がありました。


⑳同

                                                  以上

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2009年7月 5日 (日)

NO.183号 北軽井沢の花    

  北軽井沢の歴史
  海抜は1,100mから1,200mで本軽井沢に較べると400~500mは高い位置にある。従って気温は格別に低く、冬の降雪は2~3mになる程である。地形から云うと北に向かって、なだらかな傾斜である。この地形が降雪が多い原因と思う。厳寒-30度にもなる。
  吾妻郡の広大な地域は交通不便で開発されず、生活には甚だ不便な所だった。それらの解決のために信越線軽井沢駅から一山越えて草津までの軽便鉄道が敷設された。大正4年(1915)着工,大正15年(1926)完工開通であった。期間11年を費やしたが、出来た線路は工事完成部分を直ちに使用が開始されたようである。
 開通後の草津やその他の地域も開発が促進されたが、北軽は戦前立教大学の先生方が別荘を建てて、大学村と呼ばれていたくらいのもので、利用は左程進まず、戦後外地からの帰国者が定着して開拓し、酪農、果樹、高原野菜の栽培などで多難忍従を強いられたらしい。
 開発が進んだのは4~50年前、三井、三菱、西武などの開拓資本が投入されて、別荘建設が急に拡大するに至った。
 此の地は長野県と群馬県の交接地帯だが、殆どが群馬県である。北軽井沢の地名は正式には褄恋村で、別荘販売の知恵が働いたようである。草軽鉄道は今は撤去されて無い。

①看板


②高速のトンネルを抜けたらそこは軽井沢だった。そこから更に40分かけて北軽に着いた頃は丁度夕日が松林の彼方に没するときだった


③旅をすると地方色豊かなマンホールを撮影することにしている。


④松林の中に別荘が点在している。別天地である。


⑤遊ぶところはこの看板のほかに、プール、テニス、、ボーリングなど多彩。土地や建物は値下がりが大きい。後方浅間山


⑥イワカガミ。繁殖力が強い。目立たない花が小さく咲いていた。


⑦同


⑧マーガレット 路辺いたる所にこの花が。


⑨同拡大


⑩オオヤマフスマ(ナデシコ科)地面にひっそりと目立たず咲いていた。


⑪ミリオンベル 電気屋の店頭で。以下7枚は同じ店で。この辺に住む人は花好きが多いようだ。


⑫インパチェンス


⑫ランタナ


⑬ミリオンベル


⑭ペチュニアもしくはサフィニア


⑮ベゴニア


⑯ペチュニアもしくはサフィニア


⑰インパチェンス





⑲タツナミソウの園芸種?


⑳タツナミソウの園芸種?


                                              以上

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2009年7月 3日 (金)

NO.182号 近隣の花

近隣の花

①ミソハギ 近くの畑で。


②ナスの花。みな下向きで撮影が難しかった。


③アジサイ。沢山のアジサイが夫々違う色に変化するのが面白い。


④教会通りで、店の名も面白いが、私は左下のアジサイに興味をそそられた。次の写真がその拡大。


⑤上の拡大。


⑥ランタナ


⑦シュウカイドウ科の一種


⑧左カトレア、右シンビジュウム。過日野村證券荻窪支店によったらこんな素晴らしい花にお目に掛かった。受付のカウンターで。


⑨アマリリス スックと立ち上がったその姿、誠に殊勝である。細川ガラシャ夫人を思わせる。


⑩ビオウヤナギ(ビヨウヤナギ)


⑪トマトの花。駅近い細い道で見つけた。何か郷愁を思わせる。これ1本だけ。


⑫マツバギク 前回も掲載したが、こちらの方が鮮やかなので。


⑬キク科ヤマハハコ属の花。エーデルワイスと同じ仲間? 幹がコンニャクのよう。何か不思議な感じがする、夢の中で見たような。蜂が一匹いる。


⑭コリウス これは花ではない、鑑賞用の葉。


⑮オダマキ 幽玄の境地を見る気がする。


⑯同



⑰デュランタ・レベンス(クマツヅラ科)。皺くちゃに見えるが、それで面白さが倍増。教会通りの店で。


⑱オニユリ  教会通りのパン屋さんの前で、ガラス越しにサンドイッチが見え腹が減った。


⑲ルリマツリ 教会通りの横道で。


以下は北軽井沢の花
紅山法師



                                                  以上

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NO.181号 近隣の花

 花の写真が何時の間にか220枚も溜まり、早くしないと季節遅れの写真になってしまう。
 花の寿命はせいぜい概ね5日前後。この220枚を全部載せていたら何時完了か判らない。その間次々に撮影が続くから、滞留が更に増える。
 仕方ないのでここでは暫く花だけの写真掲載とご理解ください。

①アガパンサス 環状8号線に沿った古道具屋の横に石灯篭が置いてあり、その横に1m半の永い茎の上に開かんとしていた。


②ユーフォルビア(ユーホルビア、初雪草とも) トウダイグサ科


③アヤメ科の植物 住宅化の進んだこの地域にもまだ僅かな農家が残され、その畑の一隅に咲いていた。


④アヤメ科(ハナショウブ?) 同じ畑の中に。


⑤アガパンサス 同じ農家の庭先に。


⑥同農家のトウモロコシの花。私の家近く、屡ここで野菜を買う。新鮮で安く有り難し。


⑦サボテンの一種でしょうか? 杉並区桃井悠々館で。


⑧パンジーか、ビオラ


⑨アジサイ


⑩アジサイ





⑫ツキヌキニンドウ(突抜忍冬)?


⑬ツキヌキニンドウ(突抜忍冬)?


⑭マツバギク


⑮ゼラニューム


⑯ゼラニューム 素敵な家どなたが住んで居られるのでしょう。


⑰ヒマワリ、普通よりも小型。



⑱トケイソウ 広いブロック塀を埋めて咲いていました。


⑲同拡大




                                                  以上

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2009年6月 5日 (金)

NO.176 肉筆浮世絵、障害者の絵、近隣の花

  掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
 説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の故・木村東介。

 
肉筆浮世絵
 
 今まで見てきた肉筆浮世絵は遊郭(ゆうかく)の美人ばかり、しかしここで初めて風景画が出てきました。皆さんが今まで見た浮世絵は東海道53継ぎの風景画など真面目なものばかりだったのではないだろうか。

 江戸時代に描かれた掲載の絵は現代の映画スターのプロマイドのようなもので、この版画は大層な量が製作がされて全国に散らばったと推定され、出版業が今の週刊誌のごとく隆盛だったのではないだろうか。

 その肉筆画を何故大量に集めることが出来たのか?私は不思議であった。
 ブログを続けているうちにその謎が解けて来たような気がしてきた。美人だからと言っても遊女だからその絵を掛け軸にして床の間の飾ることは無かっただろうし、肉筆だから捨てられることもなく、永い間に大量のストックが国内に温存されたのだ。
 一方で版画は古新聞のように捨てられる運命になった。

 戦前までは遊女の絵を買いたいという人が居なかった。
 時代が変わり,誰も気ずかないこれ等に肉筆画の美術的価値を逸早く発見したのが木村東介であった。
 彼の存在なくして現在の隆盛を語ることは出来ない。しかも日本独自の芸術文化をこんなにも沢山を集める事も誰も出来なかっただろうと思う。これを成し遂げた偉材に感謝しなくてはならない。




上の絵の説明                下の絵の説明


 英一蝶は はなぶさ いっちょう と読む。上の絵のような出来事は昭和始めまであったとされる。
私の聞いた例では陸軍幼年学校の生徒が帽子を取られ、追うところを憲兵に発見され退学処分
を受ける身になった気の毒な事件を聞いたことがある。当時の陸幼は国内随一の難しい学校であった。

あいアイ美術館提供の知的障害者の絵
第二第三の山下清の出現を期待して。障害者にこんな才能が授けられたことに驚く。

川越 田中屋住宅 青木正臣 画伯


近隣の花
①紫はパンジー白はアリッサム。


②アジサイ


③同


④アジサイ


⑤同


⑥南天の蕾、真っ赤な実になる。


⑦モッコウバラ


⑧、荻窪教会通り。ロゼの店。ROSE バラのフランス読みだそうです。
ご主人がバラ好きで屋上に沢山のバラが下から見ると片鱗が伺える。店はご覧のように美しい。左端のアジサイを次に掲載。


⑨アジサイ。風変わりのアジサイで珍しく思わずカメラを向けた。


⑩同拡大


 ⑪榛名屋 
荻窪教会通り
 
近辺で知られた繁盛店。私宅でも毎週のように何かを買いに行く。出掛けて遅く帰るときなど夕食用に安く
誠に便利。大きな店ではないが美味しいのだ。その店先に下の花が飾ってあった。撮影の了解を得てパチリ。
美しい花でツツジと思ったが違うそうで、
アルストロメリア。南米原産ユリ科。

⑫榛名屋店先 嘗てテレビで紹介された事があった。


⑬ 
四季彩 荻窪教会通りに新しい綺麗な店がオープンした。その店頭にこの花が置いてあり、注目を集めた。
店は有田や九谷などの焼き物店で、塗り箸なども置いていた。
 花は エラチオールベコニア でこれも売り物だった。花に釣られて中に入って感心した。非常に沢山の高価な焼き物が並んでいたのだ。店主は若く客が3人いた。焼き物好きの私にはこたえられない物ばかり、若い店主が気軽に話をして呉れたのが嬉しかった。
 はじめに店を見たときに入りにくい印象を受けたので、毎日前を通りなが入らなかったのだが、印象がよくて時々入らねばと思った。見る価値のある店である。
 時代は大規模デパートの衰退期に入り、専門店の時代ではないだろうか


⑭上記拡大


⑮店名
 四季彩 入り口の立て看板


                   以上

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2009年5月20日 (水)

NO.173号 肉筆浮世絵、あいアイ美術館提供の障害者の絵、焼き物の撮影、近隣の花

 掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
 説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介。

 懐月堂派の浮世絵は保存が良ければ相当な高値が付けられます。

 ここに記載の価格は35年前の三越本店でのカタログの展示価格です。今では遥かに高いと思います。解説にあり
ますが懐月堂派の浮世絵は黒摺りで4千万円の取引が既にあったとあります。




   パイン  青木正臣 画伯
    知的障害者庇護のためにNPO法人「あいアイ」が川越城近くに美術館を備えて、
   優れた画才の少年の絵を展示しています。これはその一枚です。連載を続けます。
    第二第三の山下清がここから誕生して行くことを願うものです。



 次の二つの花瓶は 「春来」 と題する全く同じもの。撮りかたでこんなにも違う感じになります。
以前掲載のものは右のものです。撮影にも随分気を使います。


近隣の花



 以下のバラの花は一軒の家での撮影。バラの館の感じで見事なものでした。























                                              以上

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2009年5月18日 (月)

NO.172号 肉筆浮世絵、あいアイ美術館提供の障害者の絵、人形、近隣の花。

 肉筆浮世絵
 掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
 説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介。






 右の絵の価格がが左の絵の6倍余もしている。一見左の絵の方が豪華に感ずるが、保存の良否の違いでは
なかろうか?徳川中期のものだし、カタログも35年を経過のためか痛みが進んでいるのかも知れない。

 ふくろう 杉田大河 画伯
 知的障害者庇護のためにNPO法人「あいアイ」が川越城近くに美術館を備えて、
優れた画才の少年の絵を展示しています。これはその一枚です。連載を続けます。
 第二第三の山下清がここから誕生して行くことを願うものです。



 8人の人形達
 杉並区桃井町に、ゆうゆう桃井館という区営の年寄りが集う設備があり、私は月2回の碁の会に出ています。
先日の会に出た折に、玄関にこの人形が飾ってありました。聞くと利用者が作られたものの由。丹念に丁寧に
作られており、何より可愛さに感嘆しました。背景は時計です。



近隣の花
①階段にも花の置き場に。上と下がペチュ二ア、中はゼラ二ューム


 ②路肩に置かれた花。右はロべリア、左不明


 ③立派な門に手入れ完璧見事な花が一杯に。ペチュ二アが中心でアイビー(つた)が回りに。


④広い庭の外からバラを。


 ⑤白帽子の小人が群れを成して. ホット・リップス


上記を一部拡大


⑥バラ2種類を巧みに配置、よくこんなことがと感心


⑦クリスマスローズ。


⑧さくら草


⑨立浪草 タツナミソウ


⑩タツナミソウ


⑪シャガ


⑫窓を開ければ、ツツジ。


                                           以上

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2009年5月14日 (木)

NO.171号 前号より続き、近隣の花

 少し歩けばこの町は 
 花花花の花ずくめ 
 バラの開花だそれ行けと 
 カメラ持参で出掛ければ 
 80枚も撮りました
 撮った時間は一時間
 写真の整理に三時間
 ブログ編集取り掛かり
 取捨選択に大弱り
 選んだ写真は30枚
 時計を見れば何時の間に
 夜12時が目の前に
 不況不況と新聞や
 テレビニュースは騒げども
 豊かな花を眺めれば
 どこに不況があるかしら
 齢(よわい)重ねて80年
 苦労重ねた仕事から 
 離れ離れて歳月が
 潮のごとく遠く去り
 今居るとこは天国か
 それとも極楽浄土かな
 遊んでいるのが仕事なら
 幸は誠にここにあり
 昨日ゴルフに行ったらば
 あとの3人皆若い
 80までも出来るとは
 何時も褒められいい気分
 スコアは最低気にならず
 天気晴朗100までも
 気分晴朗で行くつもり
 どうか元気で若き人
 明るい未来が必ずや
 貴方に来るのを待ちましょう


近隣の花 荻窪駅から北へ1km以内、それも全部回らず。

 路肩の割れ目に咲いたスミレ

 バラ


上のバラ一部拡大


 バラ
 
 バラ


 バーベナ


 白モッコウバラ


 バコパ・ディフューサス‘スノーフレーク’  ゴマノハグサ科

 
 バラとパンジー


 ランタナ


 不明


 バラ


 ベルフラワー


 バラ


 バラ


天沼公園の蓮の花


 カルミヤ


 バラ


 ゼラニューム

                                        以上

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2009年5月13日 (水)

NO.170号 肉筆浮世絵、伊藤大貴 画伯・富士、近隣の花

肉筆浮世絵 掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
 説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介。





 
富士山・河口湖 伊藤大貴 画伯
 知的障害者庇護のためにNPO法人「あいアイ」が川越城近くに美術館を備えて、
優れた画才の少年の絵を展示しています。これはその一枚です。連載を続けます。



近隣の花 
掲載の花は荻窪駅北口より1km以内の住宅地で、09年5月13日に撮影したものです。





















                                      以下次号

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2009年5月 7日 (木)

NO.168号 喜多院その2

喜多院 境内
20090507_193119063

20090507_193110297 

喜多院、五百羅漢


 無念無想でござる


 猿が去るのを待つのみ

 
 わしが一番偉いんじゃ


 うふふのふ


 はげた頭にセメントだと、もっとましなもんがないもんかね


 うーむ困ったやつじゃ、今頃のわかいものは ブツブツ
 

 あーくたびれた


 これさえ有ればほかにはいらん


 これ!お前たち 何しとるんじゃ!!


 こんな良いとこ無いね コケがムスマデ


 いざ修行に おまえ達分かるか?


                              以上

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2009年5月 6日 (水)

NO.167号 肉筆浮世絵、岩崎喜裕のさつま芋、川越喜多院。

肉筆浮世絵、掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより。
 説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介

{註}陶芸教室が改装で、暫く焼成等が出来ず作品がお目に掛けられません。
  ご了解ください。

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Dscn18920211



 
 岩崎喜裕 画伯 さつま芋

 知的障害者庇護のためにNPO法人「あいアイ」が川越城近くに美術館を備えて、
岩崎喜裕画伯以外にも優れた画才の少年の絵を展示しています。
 今回そこを訪問しました。そこで得た資料により数々の絵を掲載します。




 あいアイ美術館の花







喜多院
 五月五日川越市に行き、あいアイ美術館と喜多院、川越城を訪れた。
 喜多院はは徳川家康の顧問として尊敬された天海僧正が住職であり、
幕府から大事にされた経歴がある。
 家康の肖像画、歴代将軍からの太刀、鎧等、重宝が豊かである。寛永15年
(1638)川越大火で消失したが、幕府が江戸城内の書院造りの建物を移築し
た。
 それが3代将軍家光の江戸城内での誕生の間であり、春日局の居間でもあり
重文である。
 四月24日~五月六日までの間、寺内と500羅漢の観光が許され、私は幸運で
あった。寺の庭の美しさと羅漢像群の見事さが強く印象に残った。平常は拝
観出来ない。寺建物内は撮影不可。羅漢像は全て違い表情で興味深かった。
 
500羅漢像群。




 秘密の話、あの子なかなか美人だねー。


 何だい?おら知らねーよ


やーこの一杯がねー。


10円とはありがとござんす。

                                    以上

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2009年5月 4日 (月)

NO.166号 肉筆浮世絵、近隣の花、自宅の花

肉筆浮世絵、掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログ
より転写連載中。説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介

20090505_1_2


29
菱川師宣 男女戯れの図
元禄頃 30X41 220万円
                         
 菱川師宣は浮世絵の祖と言われているが、厳密に言うと町絵師としての元祖である。お大尽と太夫が昼下がりの一刻を寛いでいるところで、当時の廊内の優雅な生活が偲ばれれる。
  落款には日本絵と肩書きしてあり、中国絵画の模倣でないことを明示して、江戸町絵師たる気概を表わしている。
20090505_2

30
菱川派 見立小督回
元禄頃 29X42 150万円

  この図は、小督の見立図であるが、太夫を訪れる公卿が小柴垣に佇む姿である。秋草と水の流れの上に照り渡る月の光は、この夜の物語を一段と鮮烈に写している。
  この筆者は菱川師宣であると思うが、あるいは師宣の高弟であることは、間違いない。

   太夫の着ている衣は黒いが、これは元銀の色で、銀が焼けるとかくも黒くなるのである。着物の打掛の模様などを推してみれば、この女性はあるいは武家出であったかと思われる節もある。
  浮世絵の中にあって、極めて優雅な絵であり、浮世絵は床の間が汚れると言われていた中にあって、この絵は床の間に掲げておくのに、気品を失わない絵としてもてはやされた。

 近隣の花
 ジャスミン
の花 豪華絢爛(けんらん)と言うべき花

S20090504_jasmin




 上の花が開きました。





ヤマホロシ(ハナナス)



 自宅で咲いた花 紫蘭
 

 オダマキ


 ミヤコワスレ


 蜜柑の花が開きました。


 マユミ


                                      以上

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2009年5月 3日 (日)

NO.165号 肉筆浮世絵.一年前の藤と今年の藤。

肉筆浮世絵、掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログ
より転写連載中。説明文は羽黒洞創立者、肉筆浮世絵収集の木村東介


 巻頭のカラー画像がしばらく途絶えて、モノクロになります。膨大な収集カタログでしたから、全てを原画のカラーで埋めることは困難だったと思います。しばらくモノクロが続きそのうちにカラーになります。下の絵は保存がよく価格其もそれ並と思います。当時は戦塵が次第に遠去かり世情が落ち着き始めて、こういう男性が憧れになったのでしょう。(杜の鍛冶屋)

20090502_01_2

27 無款  若衆立姿図
 寛文頃 50×30 250万円
 寛文時代は慶長、寛永期の戦塵の余裾も全く消え去って、徳川大平の世に人らんとした時代である。この若衆の立姿は、当時女性の憧れの的となった美男の代表的な姿態であろう。

20090504_01 
28 縁先美人立姿図
 寛文期 49×29 150万円
  この図は、寛文美人の立姿であるが、寛文期の遊女が緑先に立ち、折からの秋月を眺めているところである。身につけている打掛は、きわめて大胆な模様で、当時一般の人の快哉を叫ばしめたものであろう。この時代の太夫や湯女は、大方、町人農民の出ではなく、公卿、大名、その他の高貴な家庭の崩壊からこうした苦界に身を沈めた女性が多く、その風采にはひとつの気品を備えている。こういう点でも江戸中期以後の遊女と極めて歴然とした区別がつくのである。



 カタクリの花
 先号に続きカタクリの拡大写真です。落ち葉と比べて花が小さいのがお分かりでしょう。茎が細く絶えず僅かな風でも小刻みに震えている感じで,いとおしい思いでした。(以下・杜の鍛冶屋)


 牛島の藤。埼玉県春日部市。樹齢1200年、根周りが10平方mの巨樹。花房の長さは大で2m今が最盛期。撮影は昨年。藤棚の面積700平方m、同じものが三ヶ所。見物人が多く、駅からぞろぞろ







同所のカタログより転写の藤。その下の写真は亀戸天神で撮影の藤




 上は亀戸天神の藤。テレビで放映されたので、09年4月29日に好天でしたのででかけました。都内ですから人だらけ、駅からも大層な人でした。藤は殆どがもう終わり、この写真の所だけが花が残っていた有様でした。亀戸というだけあって池に亀が沢山。
 しかし池の中の小さな岩に亀が折り重なり、岩に登れない亀が気の毒でした。私が神主なら、池に岩を多くして亀が楽に甲羅を干せるように直ぐ取り掛かるのにと思いました。お賽銭を考えたら岩など安いと思いました。それとも増殖を防いでいるのでしょうか?芭蕉の碑などのがあり、次号に載せたいと思います。








 ブナの大木と思いますが、新緑があまりにも美しいので撮影しました。

                  
                                         以上

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2009年5月 2日 (土)

NO.164号 吾妻渓谷その二

 吾妻渓谷その二
 二段の滝が見えました。


 国道から右手の山に登りました。深山に入る感じでした。








 モクレンの大木に巡り合いました。青空に映えて綺麗でした。ここに住宅が何軒か見えました。





 縄文遺跡だそうで、20人くらいの人が働いていました。土器の破片がいくつも出たそうです。こんな山中に人が住んでいたのは獣を追い住んだからではないかと思いました。農耕の始まるずっと以前の事でしょう。


 しばらく歩くと木漏れ日に光るカタクリの花に遭遇して驚きました。この花は僅かな風で揺り動き撮影が困難でした。
一度見たいと思った花でした。しかし、プロが撮影したこの花はもっと花の密度が濃かったと思います。一つの花を拡大で撮影しようと試みましたが、全て失敗でした。風が邪魔でした。






、。
 吾妻渓谷では104枚の撮影をしました。お見せしたのは僅かです。
     
 お知らせ。陶芸教室が連休を含めて改装中のために窯が使用できず、
当分作品が出来ません、ご期待に添えず申し訳ありませんが以上の次第
でご了解をお願いします。      杜の鍛冶屋
 敬白


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2009年4月29日 (水)

NO.163号 肉筆浮世絵、吾妻渓谷 その一.、

肉筆浮世絵掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより転写。連載中

 一見女に見えるが、刀を差しているのだから男である。下の解説にもあるが、元禄時代は徳川政権も安定し、戦争も遠のき、こんな風俗がカッコ良い姿とされたのだから、時代が変わったのだろう。(鍛冶屋)







 里山
 4月23日に群馬県吾妻渓谷へ行きました。この渓谷は九州の耶馬溪に匹敵する美しさとされ、観光客も多く上流には草津温泉があります。
 ここにダムを作る計画が50年も前に決められながら、工事は遅々として進まず、水の消費が当初よりも減る傾向を見せ始め、水質が草津の排水が酸性で、中和の必要があったりして反対運動も起こり、批判も盛んです。酸性ですから魚が住みません。
 魚が住めない水を人が飲めるのか?等の問題も多々あり、欧米でもダム建設は停止です。多くの問題をはらみつつ今年工事が進捗し始めています。
 渓谷の入り口の里山です。東京よりも春が遅くようやく桜開花と新緑が出始めのときでした。


 吾妻渓谷 その一
 国道の遥か下に河が流れています。その水面を見るための小道です。


 河が奇岩怪石の中を細く、或いは太く流れて行きます。







ここでは桜の開花と若葉が一緒です。













        次の164号へ続きます

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2009年4月28日 (火)

NO.162 肉筆浮世絵、自宅の花

肉筆浮世絵掲載の資料は昭和49年羽黒洞刊、三越本店での展示カタログより転写。連載中
 
2枚の絵はカタログ掲載の略2倍に引伸ばしてあります。







 杜の鍛冶屋宅で咲いた花
 次の君子蘭2枚は同じ花ですが、撮影の日時が違います。鉢植えでしたが昨秋庭に植えました。




 自然に生えた次の花は2枚とも同じ花ですが、撮影の日時が違います。実物はもっと小さいです。





 自然に生えた雑草ですが、綺麗なので撮りました。これも実物はもっと小さいです


 次の2枚はクレマチス。別名テッセン





 べコニヤ


 蜜柑の花蕾です。今年も沢山実りそうです


 これも自然に生えた花です。略実物大。


 パンジイ


                                           以上

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2009年4月24日 (金)

NO.159 肉筆浮世絵、屏風絵2点、近隣の花。





下の絵の値段をご覧下さい。






近隣の花











同拡大


妙正寺川に浮かぶ桜の花びら。水上の花筵(むしろ)と言うべきか。


妙正寺川・河畔の枝垂れ桜


同、上の写真と全く同じ写真です。画像処理でこんなにも違います


                                   以上

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NO.158 肉筆浮世絵、近隣の花

 浮世絵は肉筆でも版画でも、すべて色彩で描かれているが、カタログ掲載
の絵はモノクロのものが圧倒的に多いのである。画集ではなく本質はカタログ
だからであろう。
 この絵も色彩で描かれていた筈で。素晴らしいと思う。何とも言えない艶やかな
香りが感じられる。裏付けされるごとく価格も随分している


 下の原文にある慶長、元和、寛永は豊臣から徳川への切り替えの時期にあたり、
負けて潰された大名も数知れない。明治維新に匹敵のときであり、まさに時代は激
動期。郭に入れられた女性もあっただろう。





近隣の花

 海棠は既に何度か載せました。しかし光線の加減が素晴らしく、また撮影


ベンケイ草属の花


人形あれば一段と光ります。無いのを想像すれば判ります。


狭い所でもようこそ。小手鞠


はじめて見た花です。クリスマスローズ


右下の赤い花はシャクナゲらしい。奧の赤い花はアジサイ。



この花もはじめてです。


躑躅の紅が何とも鮮やか。


モッコウバラの門素敵ですね。


モッコウバラ





                                 以上

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NO.157号 肉筆浮世絵、近隣の花

 肉筆浮世絵
 羽黒堂・画商木村東介が永年収集したものを、昭和49年三越本店で展示
即売したときのカタログを転写したものです。
 従って価格は当時のものです。そのカタログは杜の鍛冶屋が所有しています。

 大名行列。
 浮世絵は多数存在しますが、大名行列の絵は見た事がなく、これは大層貴
重品でしょう。
 解説はカタログ記載のもので木村東介のものと思います。これは屏風絵のため
に人が小さくしかならず、残念です。







 近隣の花









杉並区妙正寺の枝垂桜。この寺は鎌倉時代からのもの。


妙正寺の枝垂桜が、本堂のガラス戸に写り名物になっている。


妙正寺の枝垂桜


妙正寺の花筵(むしろ)


妙正寺公園の紫躑躅(つつじ)


妙正寺のボタン開花


                                        以上

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2009年4月22日 (水)

NO.156号 肉筆浮世絵拡大


幅37×高86 cm                              幅37×高105 cm


                                                以上



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2009年4月21日 (火)

NO.155号 羽黒洞続・90歳まで生きた画商。写真は大活躍の頃。近隣の花

羽黒洞続き。創立者 木村東介




註・ ランカイ屋とは展覧会屋の略称。彼は晩年集めた絵画を屡大きなっ展覧を開いて売り捌いた。
 原稿が細かい字で書かれているので読みにくいと思いますから沢山の書を書いたとだけご理解ください


 羽黒洞 故 木村東介 編集の肉筆浮世絵連載で掲載します。
 但しこれは一応羽黒洞の了解を得てはいますが販売のためのカタログ本でありますから既に販売済みのものが有ると思いますが持ち主がわかりませんので一々御了解頂くことは不可能です。
 金儲けでは無く素晴らしい作品群をこのまま眠らせておくのはもったいないのでご遺族とも相談の上での企画ですありますのでご理解をお願いいたします。版画の浮世絵が絶えず本屋に並び、一方で肉筆物
が好事家に滞留した儘とは残念なことです。












              

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2009年4月15日 (水)

NO.152号 岩崎喜裕 画伯 兜、 近隣の花



 近隣の花
 見たことなしの花ばかり。外来種?なんでしょうか
 ある方の見方では右の紫の花はストック。右下の二つはプリムラ。左の
上の花はゼラニュウム。下はデージーの由。
 多種過ぎて80才の私には、とても覚えられません。


 韮(にら)の花。この花は随分各所で見られます。清楚な感じで好かれます。花の寿命もなが
いです
風が吹いて花が揺れ、ボケました。


 


 住宅街に桜の大木。大木であるのが珍しい。今はもう若葉。


 山吹、これも多い花です


 赤一色の見事な木瓜(ぼけ)の大木。


 滅多に見ない木桶を使っています。


 税務署の桜です。今はもう若葉。


 同、見事な胴吹きの桜。


 玄関前の僅かなところに見事な多彩です。


 狭くとも立体的に見事な配置


 春と共に一挙に花の饗宴で、沢山の花を撮影しました。全部をお見せするには、まだ大分時間が掛か
ります。
 そうしている間に、春は容赦なく進行して行き、新しい花が現れて、こちらは置いて行かれそうです。
何百枚を撮影したか判りません。                               以上

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2009年4月11日 (土)

NO.150号 千鳥ヶ淵の桜。その3。近隣の花。

田安門出口から南に向かって。


胴吹きの花


帰り道


何時もの喫茶店に寄ってお茶とサンドイッチを待つ

千鳥ヶ淵の写真終わり。

 近隣の花。
 東京荻窪駅から北へ細い道で教会通りという道があります。昔は多分農道だったと
推定します。
教会まで曲がりが4箇所あります。時々ここにある店が記事になることがあります。
 90店もの店が犇いて(ひしめいて)います。その道から左右に別れている小道もありま
す。
 多くの人が駅への道として通ります。入り口に銀行、コンビに、床屋、蕎麦屋、歯医者、
ラーメン屋等食堂、菓子屋、靴屋、病院、衣料品店、薬屋、八百屋、蜂蜜等自然食
店、花屋、洋服屋、パン屋、和菓子屋、豆腐屋、はがき切手屋、文房具屋、陶器屋、
洋品屋,等々、この他にもあるかも知れません。
 その一つの曲がり角にこの店があり、アンジという店です。何か垢抜け感があり、好き
な店で、よく立ち止まって見ます。ウインド右方に前の店が写りカットしました。花がよく
ウインドに釣りあっています。

                       
以上

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NO.149号 続 千鳥ヶ淵の桜、その2

 田安門の中から北に向かって撮影。この門は重要文化財。万治元年(1636)
建築の豪壮な造りである。元,田安家の門であった。
 江戸城の中にどうしてそんな家が有ったのか?
 
 名君と言われた八代将軍徳川吉宗は子沢山であり、長男を九代将軍とし、あ
と3人の男子を城内に住まわせ、それぞれ田安,一橋(ひとつばし)、清水の姓を与え、
将軍補佐とし、将軍万一の時はこの三家から将軍を出すことにした。
 それは徳川御三家と将軍との血縁が離れたことに対する対策だったのではないか?
 それまでは吉宗のように紀州家から将軍が出るような御三家内の内紛もあったのだ
った。後年最後の将軍の15代慶喜の例がある。彼は三家の一橋家より出ている。

 この三家は御三卿と言われて幕府内で重きをなした。各々10万石を領したが、家
来を多く養って居た訳ではなく、豊かな暮らし向きであった。田安家初代の宗武は歌
人、国学者として著名である。
一橋家の跡地は大学になったのではないか?。



 
同じ門で、外人も多く。














巨幹に胴吹きの桜





   以上  次号に続きます。

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2009年4月10日 (金)

NO.148号 千鳥ヶ淵の桜 その1

あまりにも有名な皇居千鳥ヶ淵の桜です。4月7日撮影。


地下鉄九段下駅から坂を登ります。丁度快晴満開。続々と人の波が続きます




武道館入り口(田安門)から左の堀の方向に向かって。


古木の枝が堀へ流れ落ちるかの観があります






武道館への入り口を背にして。この日丁度明治大学の入学式が武道館で行われ、在校生が整理に当たっていました。





       以上で写真10枚。以下次号へ更に桜が続きます。

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2009年3月31日 (火)

NO.143号 千鳥ヶ淵の桜続き。喫茶店も。

 昨日142号を出したばかりですが、写真を沢山撮りましたので、補足を掲載します。
 江戸城側の対岸ばかりに開花が進んでいました。


 ボートを恋人と。人生に新しい光明が注がれるときですね


武道館方面を望んで。




 対岸の薄赤に見えるのは桜の蕾。開花を見たいもの




 「立ち止まらないで下さい」の拡声器に押されて、ぞろぞろ。。


 道端に見事に シャクナゲ が。この花は晩春か初夏のものと思ったのに?植えたのかしら?


 靖国通りから遊歩道に入った入り口の右側にある喫茶店。軽食も出来て私のお気に入り。壁を美しい皿が埋め尽くす。頭上の壁は古時計が埋め尽くす。


 茶卓もカップも変わった形で面白い。カウンターに座るのが好き。客席はこの時期たいてい満員。

                                       
                                          以上

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2009年3月16日 (月)

NO.138号 青梅梅林

 ここで東京練馬の石神井公園のことを書くつもりでした。しかし私が青梅梅林に行ったのが09.3.12日で
既にに満開でしたからから、早くお知らせしたいと思いました。
 初めて行った昭和23年(1948)には農家単位の梅林しかなく、それでも村全体に梅花が見られ、梅の青
梅を見て満足しました。見物人も少なく静かな農村でした。
 今回は4回目でしたが、快晴に恵まれ大規模な梅林が公園として整備されていて、見物人も多く驚きまし
た。説明は不要と思いますので写真だけをご覧に入れます。
 


 










































                                                      以上

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2009年3月15日 (日)

NO.137号 近隣の花  

  気がついたら、このブログのアクセス数が10,000を越えていました。昨年(08年)5月21からで、最近はスピードが上がっています。ご愛顧を感謝します。アクセス数はこの右肩に表示されています。
 近隣の花、東京杉並区で。
 勝手に美しいお家の花を撮影させて貰いました。ご迷惑にならないように、表札は撮りません。一々 お断りしていませんが、ご了解をお願いします。

 コブシの蕾(つぼみ)が色付いてきました、開花も早いでしょう。


 ある家のにぎやかな花壇です。柵の外から撮影。余裕が感じられます。



 上の花壇の続きです


 門扉に鉢植えを飾り羨ましいです


 春そのものの明るさですね。


 同様に。


 同様に。こんな風景を見ながらの散歩が素敵です


 随分凝った鉢に名も知らない花が。こんな風景のお陰でこちらは楽しまさせて貰えます。


 日本人て花が好きなんですね。欧州へ旅したとき住宅の窓に飾られた花を羨ましく眺めましたが、後に日本もそのようになりました


 門も花もおしゃれで素敵。なにか奥ゆかしさが感じられます。


 小学校では桃が満開。卒業の後も春になるとこの桃の花を思いだすでしょう。


 この木お判りですか?山茱萸(さんしゅう)です。あの「稗突き節」で知られました。探したらよそにも結構ありました



沈丁花が今盛り、方々で見かけます。


137号の近隣の花終わりです。同137号の石神井公園に移ります。以上

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2008年8月19日 (火)

NO 71 軽井澤08年8月中旬    .   

 今年あんまり暑いので我慢出来ずに一走り、涼しい所に出かけましょう。道路渋滞気に掛けず、ガソリン高も何のその、かくて軽井澤は人の波、派手なカラーで人絶えず。噴煙棚引く浅間山怒り出したら怖い山、24度で昼寝する。東京の方ゴメンなさい。

 二度上峠から浅間山、北軽高原が一望に、噴火の話嘘のよう。軽井澤銀座は遠去かる。こちらの方が余程天国比類なし。別荘地広さ無限なりと言う。本軽井澤より涼しいことは違い無し、静かなことも違いなし。

午前7時の原始林静寂満ちて嘘のよう。売り地いっぱい広がって、ゴルフ場があちこちに。スキー場も出来ました。


 午前7時のコンビ二はここ一箇所で大繁盛。ここに在りしスーパーは潰れて閑散困りもの。夏しか来ない気まぐれの、客の相手も楽でなし。
 沢山並びし食堂や野菜果物並びたて商売繁盛祈るかな。プール備えしホテルあり、滝を備えし蕎麦屋あり、この夏殊に盛るかな。
 旨い刺身を出す店は、一体何処から運ぶだろ,テニスコートやボーリング、努め揃えて客待ちの、苦労のお陰で我々は感謝しながら涼しさを、満喫しながら遊ぶ幸。心配事は忘れ去り、みんな健康元気よく。楽しく生きて行きましょう。



軽井澤銀座は人の波、牽引力の旺盛さ。


同じく


軽井澤はマンホールまでおしゃれ。


店はおしゃれを競い合い

同じく



同じく


軽井澤教会も負けずに素敵。見物客の多いこと。中村草田男句碑有名。句は忘れて残念だ。


有名な万平ホテルは木立陰、撮影出来ずで仕方なし。娘夫婦が昼食をここで我等に奢るなり。親孝行に感謝する。
 ここの近くのテニス場、嘗ての昔のその昔、王子様とお姫様、互いに引かれしその侭に、ご婚儀あげし歴史あり、若き人々忘れ去り、歳をへられて両陛下
、、総理くるくる変わるとも、辛きことでも辞められずご苦労様と思うなり



                           以上

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2008年8月 3日 (日)

NO67 ラベンダーさんのカトレアの花。函館洞爺の旅の続き

素晴らしい傑作。カトレアの花.以下は作者ラベンダーさんの説明です

 このカトレア(Lc.Starting Point 'Unique')は、国際園芸(花株を売る会社)で、1990年(平成2年)6月16日に購入しました。
 購入以来18年、我が家では毎年冬に必ず咲きます。極めて強健な品種です。全体が白色で、中心が赤で、日の丸を連想させます。大変豪華な花です。こういう色をセミアルバの花と呼んでいます。
 カトレアは難しいというイメージがありますが、成長する春から秋にかけては、毎日4~5時間直射日光が当たる場所で育てて、冬は、室内で12℃位が保てれば冬越しします。
 成株(蘭用語で成長した株)は4号鉢か4.5号鉢(素焼き鉢)で、水苔で育てるのが一番いいようです。鉢が小さくて蘭が窮屈そうで可哀相と思われる位の小さな鉢で植えるのがコツです。条件が揃えば、強健なので必ず咲きます。



部分拡大


函館・洞爺の旅続き
高さ100米の展望台室内に展示の五稜郭の模型。これで概観が判る

 五稜郭内に展示のクルップ砲。クルップはドイツの造機会社で、兵機の製造で大きくなった。この砲の射程距離が3千mとあり、維新前のドイツにもうそんな物を作る技術が有ったのに驚いた。


 函館の町には明治の建物がビルの間に幾つも残っていた。


 函館の旧イギリス領事館。維新前の1934年(安政6年)から1934(昭和9年)までイギリスの国旗を掲げて存続。現在は高級喫茶店と開港記念館になっている。


 領事館前の坂道。


 榎本武揚(えのもと たけあき)は1836年(天保7年)幕府旗本の次男として生まれ、1908年(明治41年)に亡くなりました。今年は没後100年に当たり、函館で特別展が開かれています。

 若い人から榎本武揚とはどんな人ですか?と聞かれたので、前号に補筆して以下を書きました。
 彼は幕府からオランダに留学を命じられ、し欧州に5年間滞在し、各国を回り、語学を学び見聞を広め帰国します。
 帰国の乗り舟は幕府の注文で買った軍艦開陽で、後に20歳代でこの艦長となり、海軍副総裁となります。 素晴らしい才能の持ち主であったことは確かで、帰国して見た祖国は開国で混乱の最中でした。
 幕府が官軍に押される中で、彼は若いときに蝦夷地と樺太調査をした経験から、傷を負わなかった海軍を率い、降伏反対の不平士族を連れて函館五稜郭を手に入れ、北辺の守りと、蝦夷地を幕臣の開拓と独立国家にしようと志を立てて失敗し、獄に下ります。
 ここまでは前号に簡単に説明してあります。
 明治5年に彼は釈放されました。優秀な語学と才能を惜しまれて、新政府が必要としたのでしょう。
 この点は彼の幸運でした。
 例えば幕府陸軍奉行の小栗上野介は故郷群馬で恭順の姿勢で居たのに、無抵抗で殺されていますし、会津若松藩も降伏したのに、戦争を官軍に仕掛けられて多くの死者を出しました。
 この革命の最中悲運の人が無数に居ました。小栗も幕命の留学生でしたし、極めて優秀俊才で惜しい人でした。
 出獄後榎本は政府の役人に登用されて北海道に赴任します。
 明治8年、彼は千島列島と樺太の帰属について、ロシヤとの紛争のを解決する為に,特命全権公使となり、ロシヤと交渉しました。
 ロシヤも日本も樺太と千島列島は夫々が自国領土と主張していたのです。この交渉結果で樺太がロシヤ、千島が日本領土となったのです。
 間宮林蔵の測量までした樺太がロシヤに取られたのは残念ですが、千島はこの条約で日本のものになったのですから、日本固有の領土と言える筈です。大戦後 千島は何故かロシヤ領になり、北方固有領土の4島もロシヤは日本に返して呉れません。
 私はロシヤの狡さが誠に憎いのです。戦後のシベリヤ抑留なども実に酷いものでした。
 明治政体の下で武揚は次第に頭角を現し閣僚まで栄進しました。
 、一時朝敵となった彼の人生は、社会の批判の中で前半の光に対して後半は陰の人生と評価されたようです。
 下記は函館特別展の資料です。


 洞爺駅。サミット会場として歓迎のムード。



 サミット会場として著名になったウインザーホテル売店。小さなハンドバッグが50万円と超高級店並。
 ホテルの社長はセコムの飯田社長と聞いた。

                            
                          以上

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2008年7月26日 (土)

NO 65 ラベンダーさんが育てた蘭の花 ・Mさんの刺繍 函館の町

 ラベンダーさんが育てた蘭の花
カトレヤ(Blc.Memoria Crispin Rosales 'Costa Mesa')

 この花は、私が蘭の栽培を始め間もない頃、カトレアのラベンダー色に憧れ、国際園芸から、3号鉢の苗を1988年(昭和63年)6月18日に購入しました。
 丁度20年わが家で生き続けたことになります。最近調子を落としていましたが、今回ようやく1輪咲きました。どうもこの品種は不定期咲きのようです。




 記憶ではこの写真は多分夏だろうと思います。この花は不定期咲きなのでしょうね


 Mさんのパッチワークを以前に載せました。刺繍が1枚残りましたので掲載します。


 函館の町
 7月21日から函館に1泊と洞爺湖のサミット会議のあったウインザーホテルに22日に泊まり、2泊3日の旅をして来ました。函館は五稜郭を見るのが永年の夢でした
 この塔は約100m。町と五稜郭を一望する塔です。この塔に登らないと五稜郭の形が全く判りません。
 私はこの城の中に入りましたが、とても予想よりも広大且つ平坦で、木が茂り全貌を掴むことが不可能で、塔に登らざるを得ませんでした。しかし、城の全体を撮影することは不可能でした。次がその写真です。



上の写真は五稜郭の一部です。

下水のマンホールが五稜郭のデザインでした。
 
  以下函館と洞爺の事は次回に続き報告します。

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2008年7月 3日 (木)

NO56 Mさんのパッチワーク

 Mさんの作品は今回で終了になります。老齢で製作を止められたので、作品は左程多くは有りません。
 下の作品は大きなものではありませんが、良く出来た作品と思います。
 50cm四方

 下の2枚は上記作品の部分拡大




           クッション①40cm四方


        クッション②40cm四方


                                 以上

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2008年6月10日 (火)

NO41 Mさんのパッチワーク

NO40に掲載のMさんのパッチワークを明るく大きくして見ました

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