学校を出た昭和26年、神田にカメラ屋があり、素晴らしい芸術写真が店頭に並んでいた。聞くと表現社という団体があり、その神田支部で毎月例会があり、その時の入選作品だと説明され、入会を薦めて呉れたのだ。やっとカメラを買い入会し例会に出てみた。
場所は近くのしるこ屋の2階座敷で夕方から始まった。支部の会員は20名くらいで、驚いたのは当時の著名な写真家で、カメラ雑誌の編集長の鈴木八郎氏が出席であり、会員の作品の講評をして数枚の入選作を決めてくれるのだ。これが毎回だという。
人により何枚出してもよく、壁いっぱいに写真が張り出された。ド素人の私は1枚を恥ずかしいが出しておいた。それは朝の風景を写した「朝の光」と題したものであった。それが入選作として先生が作者の感じたものが素直によく表現されていると激賞された。それが次の写真である。1951年11月22歳 青梅街道荻窪の早朝、車が無い。単細胞の脳味噌で興奮した私にとり、それが写真にのめり込む動機となった。

次第に写真にのめり込んだ経緯を上に書いた。これは当時としては金持ちの道楽と考えられていた。それだけ写真は金のかかる趣味であった。若く貧乏であった私は安くあげるために撮影後の処理を勉強して全部自分でするようになった。会の仲間は金持ちらしい企業経営者ばかりで年配者が多かった。私が一番若かったと思う。
昭和27年5月の日曜日にふと思い立って成田山参詣に出かけた。私の両親がそこのご利益で結ばれた話を何度も聞かされていたからである。参詣が私にもご利益を与えて呉れるかも知れないとふと思ったのだ。
5月新緑のころで参詣者が多かった。そこで撮影したのがこの写真。鳩が多く餌を与える人も多かった。何に驚くのか鳩の群れが一斉に何度も飛び立った。ありふれた情景だが飛び立つ瞬間の群れが写真にならないかと思いつき、貴重なフイルムで場所も変えて何度もその瞬間を狙った。気づいてシャッターを押しても鳩の飛び立つのは早い。10枚程撮り現像した中でこの一枚だけが瞬間を捉えていた。
これを写真雑誌に投稿をと考えていたら、鈴木八郎先生から手紙が来た。この写真を三菱製紙の広報誌『月光』(この名前は三菱製紙の印画紙の名前にもなっていた)に推薦したいから文章を書いて送れとあった。私は写真雑誌の方に向いていたが、入選の可否は分からないし、これから先写真はいくらでも撮れるし、著名な先生がわざわざ手紙までくれたからと思い、それに従った。
当時先生は写真家として三菱製紙の顧問だったのであり、優品を選び推薦していたのだ。この会社は印画紙のメイカーで利用者が多く、そのため広報誌を出していたのだった。
成田山は確かにご利益があったことになった。
その後 いくつかの本に作品が掲載され、私は将来写真家になろうか?とも考え始めていたが、始めて2年余であきらめざるを得ない状況がが訪れた。それは朝鮮戦争で急速な経済成長が始まり、むちゃくちゃに仕事に追われる日々が始まり、残念だが当面の仕事を優先しなくてはならず、カメラから遠ざかる運命になり、以来遂に写真に戻ることは出来なかった。
お見せするのはその2年余の作品だけである。12月下旬から1月中旬頃まで陶芸教室の窯が停止する。その間は自作陶芸品以外の記事となりますのでご了解ください。
批評家の目でみたこの写真の鑑賞の仕方について
批評家によると、この作品の鑑賞のポイントは次の点にあるそうです。
1)この写真の最大の特長は、真ん中の少女の驚く様子と、鳩が飛び立つありさまが連動して極めて動的な構図になっている点である。
2)真ん中の少女の左右のお堂の中が暗くなっていて、白い鳩の羽根が強調されて、鳩の乱舞する様子がはっきり分かる。
3)撮影者は、正面に見えるお堂の反対面にある別のお堂の欄干(若干高い位置にある)から撮影しており、撮影ポイントの選択がよかった。
4)右下の2人の女性が鳩の方ではなく、反対方向を向いているのが、この写真にアクセントを与えており、この写真を生かしている。
以上
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